本件殺人未遂事件の舞台である市場急配センターのホームページで代表者と記される堂野俊一という人物について(2019.08.29)

本件殺人未遂事件の舞台である市場急配センターのホームページで代表者と記される堂野俊一という人物について(2019.08.29)

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 4,5日の間、中断をしていたかと思います。数日ぶりの投稿は、Windows10のパソコン環境からになります。

 数日前になりますが、朝目が覚めたとき、夢の続きだったのか、被告発人安田繁克の供述調書の冒頭部分のことが頭に浮かんでいました。長い間思い出すことがなかったような気もするのですが、思い出していたとしてもさほど重視はしていませんでした。

 ちょっと違っているかもしれないですが、「私は今言った住所に妻、美鈴と一緒に住み」と言った部分です。その女性の名前を知ったのは、その供述調書を読んだのが初めてでしたが、思いあたる女性については確かな記憶がありました。

 私が市場急配センターで市内配達の仕事をしたのは、平成3年6月22頃日から同年8月いっぱいぐらいです。早い段階の私の記憶では5月だったのですが、金沢市場輸送を退社前の運行表が出てきて、6月も金沢市場輸送で長距離の仕事をしていたことになっていたのです。

 その金沢市場輸送の運行表については、ネットで公開したと思われる写真をつい最近も目にすることがありました。これまではさほど重要視していなかった運行表なのですが、被告発人木梨松嗣弁護士の控訴審の段階での差し入れであったかもしれません。

 金沢市場輸送で会社を辞めると話してすぐ、私は市場急配センターに行きました。すでに紹介で入社していた被告発人安田敏が市場急配センターで仕事をしていたからです。私は50万円の前借りの保証人にもなっていたのですが、その安田敏の入社自体が、計画の1つであった可能性があります。

 記録には記憶の新しい段階で具体的な事実経過を繰り返し記述してあることです。被告発人東渡好信が主導した金沢市場輸送のストライキと連動した被告発人安田敏の登場でした。大型免許を取得するため大徳自動車学校に市内配達の仕事をしながら通う、ということがすぐに決まっていました。

 段取りが早すぎるとも感じましたが、金沢市場輸送での入社が決まってすぐ、被告発人安田敏は市場急配センターで市内配達の仕事をするようになっていました。ちょうど免許停止中だったという被告発人多田敏明を同乗させ、内灘コースの配達をしていました。

 その後、被告発人多田敏明は、フィアレディZに彼女を同乗させ、雨の中、北陸自動車道の小松インター付近で大きな事故を起こし、免許停止になったとも話していました。小松からのラブホテルの帰りと言っていましたが、小松市にラブホテルがあったかな、とは少し疑問でした。

 フィアレディZは、新型車に近いという話しぶりだったと記憶にあります。事故で廃車になったと言い、その後、免許停止が明けてからは、あまり若者らしくない軽四に乗っていました。それも祖父に買ってもらったというような話をしていました。

 被告発人多田敏明は、市場急配センターの事務所が出来てからの入社だと思います。金沢市場輸送の事務所と一緒だったときに見かけた顔ではありませんでした。

 今考えると、平成2年6月の片山津温泉ホテル長山での慰安会のときも、被告発人多田敏明の顔は見ていなかったような気がしますが、市場急配センターの市内配達でかなり若者が増えているとは感じたことを憶えています。あるいはそのなかに被告発人多田敏明もいたのかもしれません。

 被害者安藤文さんは、すでに市場急配センターの仕事していたかと思いますが、慰安会には参加していませんでした。これは当時、意識的に見て記憶していたことなので間違いはないと思います。被告発人HTNもまた市場急配センターで仕事を始める前でした。

 すでに告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁石川県警察御中(@kk_hirono)で投稿していると思いますが、片山津温泉ホテル長山での慰安会では、金沢市場輸送の輪島の運転手と市場急配センターの運転手がケンカになったという話でした。

 私はその現場を見ておらず、酒に酔って部屋に戻って眠っていたところを、輪島の運転手仲間に起こされて、一緒に金沢に帰ったのです。金沢市場輸送の給油所の前あたりで、長話をした後、くるまやラーメンに行ったことなど書いていると思います。

 ケンカになったという話でしたが、誰一人怪我をしている様子はなく不思議には感じていました。あとで被告発人安田繁克も参加して市場急配センター側で張り切っていたというような話を聞いたこともありました。誰に聞いたのかは覚えがないですが、金沢市場輸送の運転手ではないと思います。

 前にも書いたことがあると思いますが、金沢市場輸送を辞めたと市場急配センターの事務所で被告発人松平日出男に報告したとき、次の仕事が決まっていないのであれば、しばらく一日1万5千円という条件で市内配達の仕事をして欲しいと、誘われたのです。

 その翌日から市場急配センターで市内配達の仕事を始めたと記憶にあるのですが、すぐに正社員として市場急配センターに入社することが決まりました。当時は派遣という仕事の形態もなかったので、入社と言うことはそのまま正社員でした。

 市場急配センターの給料日は、25日締めの翌月5日払いでした。当時も珍しい支払日と聞いたことがありますが、5日の支払日が銀行の休みとなった場合、銀行の営業日明けの支払いになるともされていました。

 一日1万5千円というアルバイトは3日で終わったと記憶にあります。25日までの3日間となるので23日から市場急配センターの仕事を始めたと考えられます。

 被告発人安田敏から久しぶりの電話があったのは4月の終わり頃、ゴールデンウィークに入る4月30日の直前であったと思います。それから一週間か長くても10日の間に、被告発人安田敏の入社が決まり、決まった翌日ぐらいから市場急配センターで仕事の仕事をしていたようでした。

 なお、4月の終わりぐらいから2週間程度だったと思いますが、金沢中央卸売市場では毎年、集中してタケノコの出荷がありました。私は昭和59年から経験をしていたのですが、タケノコの出荷は、新潟県内や東京が多く、山形県仙台市もありました。

 市場急配センターは2トン車でも新潟県内にタケノコを運んでいたらしく、金沢市場輸送の大型車に乗務していた頃ですが新潟県内で見かけたことがありました。

 繰り返しますが月末に近い23日あたりから私は市場急配センターで市内配達の仕事を始めました。被告発人安田敏が大型免許を取得したというのは、それからでも一月ほど後だったと思います。仕事が終わった後、大徳自動車学校に行って、それから藤江のゲームセンターに立ち寄ることもありました。

 あらためて考えると、被告発人安田敏の金沢市場輸送への入社は5月の5日前後と考えられ、大型免許を取得したのが早くて7月の中頃と考えられるので、2ヶ月半というのは長すぎるという気がします。

 私も金沢市場輸送で市内配達の仕事をしながらでしたが、一発試験で大型免許を取得しました。合格した日は誕生日の翌日だったのでよく憶えています。昭和61年11月27日のことです。9回目の合格であったように思います。あるいは13回目になりますが、その辺りの記憶は早くからあやふやでした。

 合格した当日に大型免許の交付があったと記憶にあるのですが、その免許証の交付の手数料を含めて1500円ぐらいだったと記憶にあり、合格しなかったときの費用はそれよりだいぶん安かったと記憶にあります。仮にすべて1500円としても10回で1万5千円になります。

 被告発人安田敏は、お金で生活に困っていると言いながら、前借りを入社の条件とし、当初30万円と言っていたように思うのですが、50万円につり上げました。口先で本当に生活に困窮とは思えなかったし、何よりおかしいと感じたのは、安田敏の妻が全く礼など言わなかったことです。

 そればかりか、徹底して顔を隠し見せようとはしませんでした。私も初めての経験だったので理解が出来なかったのですが、それが何事もなかったように、目の前で顔を見せたのが、平成3年12月22日のことでした。21日の翌日で日曜日だったと思います。

 それも出産予定日を5日ほど前に控えた状態で、マタニティ系の服ではなく、大きなお腹が目立つジャージのズボンに長袖シャツのような服装でした。数日後、ほぼ予定通りに出産したと被告発人安田敏に聞き、自分と同じ12月25日が長女の誕生日となったとも聞いたような覚えがあります。

 無事出産を終えたと被告発人安田敏に話を聞いたのは、栃木県足利市のガソリンスタンドから掛けた電話だったと思います。古河の山三青果の帰り荷を積んでいたときだったと思いますが、市場の荷物を積んでいるときガソリンスタンドに立ち寄ることは滅多になかったので、余計に印象的に憶えています。

 国道50号線沿いでしたが、大きな中央分離帯があって、佐野市から前橋市方面に向かっているときではないと、大きく迂回しなけらばならず、一度やって懲りた経験があったので、ほとんど利用しないガソリンスタンドでもありました。太陽鉱油のカードのガソリンスタンドでした。

 私は何度か一発試験に通うことを、大幅な費用の低減になるとも被告発人安田敏に説得したのですが、まるっきり聞く耳を持たない様子でした。多少なりとも違和感を感じていましたが、それは金沢市場輸送で入社が決まったときにも感じました。

 一応面接というかたちだったと思いますが、なぜか夕方の遅い時間に行われました。外はすっかり暗くなっていて、19時半から20時半の間であったように思います。金沢市場輸送の事務所ではなく、その隣の運転手の控え室のようなところ、外のドアから入ってすぐのテーブルで行われました。

 今思い出せるのは、本恒夫社長だけですが、他にも2,3人の幹部級が同席していたように思います。本恒夫社長はたんたんと面接をしていましたが、あまりに自然体だったので、不思議に思いました。

 それというのも昭和60年になりますが、被告発人安田敏は金沢市場輸送に入社をして、仕事をしていた時期があったからです。当時は本恒夫社長も大型車の長距離の仕事をしていたので、顔を合わす機会が少なかったとは考えられましたが、どうなのかという思いはありました。

 なにか私に負担を負わせて会社につなぎ止めるのが目的とも思えました。それがあらかじめ話が決まっていたように決まった被告発人安田敏の50万円の前借りと、私の保証人でした。被告発人安田敏に対する質問というのはほとんどなかったと思いますし、私に対しても同様でした。

 なにより金沢市場輸送への入社が決まってすぐに、市場急配センターでの仕事が決まったことが素早い動きでした。当時、金沢市場輸送の本恒夫社長と市場急配センターの被告発人松平日出男は対抗心が強く折り合いが悪いとも言われ、本恒夫社長に関しては対外的にも摩擦を起こしていると聞いていました。

 自尊心が強く独りよがりというのか、お山の大将という声を聞くこともありました。これは金沢市場輸送で事務員をしていた谷口さんから直接話を聞いたものです。当時20代後半と聞いたと思う女性事務員でしたが、当時25歳前後だった私には、かなり年上に見えていました。

 これまで少なくとも強調して書いたことはなかったと思いますが、この谷口さんという金沢市場輸送の女性事務員は、事件の鍵を握る人物かもしれないのです。前提となるのは被告発人安田敏の話です。

 金沢市場輸送を辞め、市場急配センターで仕事をするようになってからも定期的に金沢市場輸送に行く用事がありました。用事というのもどうかと思いますが、トラックの給油で金沢市場輸送の給油所を使っていたためです。

 この給油には鍵が使われたのですが、少なくとも市場急配センターでは1つの鍵を全社員の運転手が使い回していたと思います。この給油の鍵というのも私と被害者安藤文さんの接触の機会となっていました。鍵を彼女が管理するようになったからです。

 正確な時期が思い出せないですが、それ以前は金沢市場輸送の事務所で主に谷口さんから鍵を受け取り、給油が終わって返していました。金沢市場輸送の女性事務員は、谷口さんの他にもう一人いました。小柄で物静かな女性でしたが、20代前半と聞いたかもしれません。

 いつ頃に入社したのかもよくわかっていなかったのですが、平成3年の秋頃には、谷口さんと親しくいつも一緒にいるという感じでした。名前は聞いたことがあったと思いますが、早い段階で忘れていると思います。小柄で声も小さかったように思いますがそもそも声を聞いたことがなかったかもしれません。

 記録には繰り返し書いていると思いますが、被害者安藤文さんは、毎日、金沢市場輸送の事務所に行きコンピュータのデータ入力をしていました。私が金沢市場輸送にいた頃は、午前中に見かけることが多かったと記憶にあります。

 そのあとのことはよく思い出せないのですが、平成4年2月3日に、平成3年11月の終わり頃から続けていた裏駐車場での自分の軽四の駐車をやめてからは、私が会社にいる時間は市場急配センターの事務所にいるようにして、仕事に出る時間に出かける姿を見ることが多くなったように思います。

 私は午後に七尾市に積み荷に行くことが多かったのですが、午後2時から3時の間に会社を出ることが多かったような気がします。先ほど平成4年2月1日としましたが、2月3日だったので訂正しました。

 平成4年2月1日というのも特別な日でしたが、その日の夜遅く、23時頃ではなかったかと思いますが、偶然を装った被告発人安田繁克と会って市場急配センターの1階で話をすることになりました。供述調書で被告発人安田繁克はそれを、私の方からけんか腰で絡んできたように供述しています。

 平成3年の12月の中頃は、まだ金沢市場輸送に給油に行っていたと思うのですが、平成4年になってからはほとんど行かなくなっていたとも思うのです。代わりに給油に行くようになったのが、石川県河北郡になりますが津幡町のガソリンスタンドでした。

 金沢市内の市場急配センターの事務所からどのくらいの距離、時間が掛かったのかよく憶えておらず、あまり意識もしていなかったと思いますが、往復だと馬鹿にならない時間が掛かりました。それでも津幡まで給油に行くことが増えたと記憶にあります。

 市場急配センターで使えるカードは太陽鉱油のカードだけでした。名前は大きそうな会社ですが、カードが使える給油所はずいぶん少なく、関東でも給油をしたと記憶にあるのは、国道16号線沿いの千葉県野田市、ここはかなり大きなガソリンスタンドでした。

 バイパスではない旧道の国道4号線沿いで、ちょうど茨城県と栃木県の県境でしたが、間々田に太陽鉱油のカードが使える給油所がありました。ここはもっともよく利用したとも思いますが、大型トラックが出入りするとは思えないような小さめのガソリンスタンドでした。

 そしてもう一つが、さきほど被告発人安田敏の妻の出産のことで書いた足利市のガソリンスタンドです。規模はかなり大きめのガソリンスタンドでしたが、不都合もあったので利用はわずかだったと思います。

 当時の大型トラックの経由のタンクというのは2つ付いていて、300リッターずつ入ると聞いたことがありましたが、金沢市場輸送の保冷車ではよく入って530リッターぐらいだったと思います。

 一度、金沢から鮮魚を積んで青森に向かうとき、富山県の魚津インターで降りて給油するつもりが、富山インターの手前でガス欠を起こして肝を冷やしたことがありました。それ以来、余裕を持ってこまめに給油を行うようになりました。ガス欠した前日は長崎県にいたことも憶えています。

 やはり思い出せないのですが、なぜか平成4年に入ってからは金沢市場輸送に給油に行かなくなったように思います。

 一度だけ、七尾市に積み荷に向かうのに津幡町の太陽鉱油のカードの使えるガソリンスタンドに立ち寄ったことがありました。これも被害者安藤文さんとの間で特別に記憶に残る運行となったのですが、北陸ハイミールでミール移動をしているとき、急に長距離の仕事の指示が来たのです。

 津幡町の太陽鉱油のカードの使えるガソリンスタンドは、国道8号線沿いで、津幡の検問所の大きな交差点の少し手前、左側だったと思います。検問所のところは大きな三叉路で、右に富山方面、左に能登方面となっていましたが、通常、能登方面に向かうには遠回りにもなるので通らない道でした。

 2ヶ月ほど前になりますか、Googleマップ津幡町の周辺の国道8号線をみたのですが、平成4年当時とは道路事情がかなり変わっている感じでした。

 最後に金沢市場輸送の給油所に行ったと記憶にあるのは、平成3年12月の28日頃でした。仕事納めではなかったと思いますが、それに近い日のことです。12月も終わりだったので17時過ぎには外もだいぶん暗くなっていたと思います。

 すっかり暗くなった時間で、被告発人多田敏明と西口君がいたことははっきり憶えています。他にも数人がいたと思いますが、顔ぶれは現在思い出せなくなっています。

 不貞腐れたように不機嫌な態度を見えることも少なくなかった被告発人多田敏明ですが、そのときは妙に明るく、被告発人HTNのアパートに遊びに行こうと言い出しました。横にいた西口君も同じぐらい積極的に感じられたのですが、突然の言い出しとは考えにくく、織り込み済みと思えました。

 妙に明るい被告発人多田敏明の不自然な態度というのは、その数日前にも感じていました。12月24日のクリスマスの夜だったと思います。時間は23時から0時の間ぐらいだったように思います。場所は金沢中央卸売市場の中の高瀬商店の近くです。トイレの前ぐらいだったでしょうか。

 高瀬商店についてはTwilogで検索をすれば情報が出てくるのではと思います。一つの目印ような場所にもなっていましたが、その辺りで茨城県古河市の山三青果の荷物の福井分の中継を行っていました。

 だいたいは4トンウィング車に積み替えをしていましたが、ある程度荷物が多いと、そのまま被告発人多田敏明を同乗させて福井の市場に行っていました。この福井中継で思い出すのは、被告発人多田敏明と被告発人梅野博之だけですが、被告発人梅野博之を同乗させて向かったことはなかったと思います。

 はじめの頃に一度だけだったと思いますが、被告発人HTNと二人で福井の市場に行ったことがありました。私がまだ金沢市場輸送の大型運転手をしている頃であったと思います。

 この山三青果の仕事についても記録では思い出す限りの詳細を記述していると思います。そこにも書いてあると思いますが、最初に山三青果に行ったのは昭和62年の4月から5月頃のことでした。当時は、日榮運送の下請け仕事だったと考えられます。

 Googleで確認すると日榮運送でも検索結果が出ましたが、漢字は「日栄運送」が正しいようです。金沢市場輸送では長崎県長与町のミカンの仕事もしていましたが、その後、大きなケンカ別れをしたと聞きます。それも本恒夫社長が相手を怒らせたようでした。

 東北陸運塩釜本社では、実際に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とまで言われたことを記録には記述していると思いますが、本恒夫社長の仕事相手の怒らせ方というのも尋常ではなかった様子で、それも他の目的のための計算ずくの意図的なものがあったようにも思えます。

 東北陸運塩釜本社では、苫東陸運という同じデザインのトラックで、北海道の苫小牧港からフェリーで仙台港に来た荷物の積み替えも多かったのですが、確か高橋課長と呼ばれていたように思います。その人と、丸刈りのスポーツ選手のような若者が主に荷積みをしてくれました。

 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉を金沢市場輸送の本恒夫社長に向けて発したのは、普段より温厚そうにも見えていた丸刈りのスポーツ選手のような若者でした。当時は名前も知っていたかもしれません。今もなんとなく顔立ちが高橋課長とともに記憶にあります。

 高橋課長ではなく高橋部長だったかもしれません。運転手としてもかなりベテランという感じでしたが、東北陸運塩釜本社でもトップクラスという感じでした。石巻からの立ち寄りが多かったですが、着くとすぐに事務所から出てきて、手際よく荷積みをしてくれました。

 私はいつの間にか慣れていたので余り苦労することもなかったのですが、東北便は卸先の数も多く、荷物の種類も多かったので、慣れない運転手は大変な思いをしたとも聞きます。300キロの生マグロからおでんの練り製品も多くありました。

 東北便で大変な思いをしたと記憶にあるのは、山形自動車道が開通する前で、冬場に有料の笹谷トンネルを通っていた頃のことです。山形自動車道の開通後は新潟市内まで行っている時間に、まだ山形県に入れていないということもありました。

 有料の笹谷トンネルではない笹谷峠という道路はもっとすごいと聞いたことがありましたが、通ったことがありませんでした。それでも坂が急で、冬場は路面が凍結し、まるで地獄巡りのような趣がありました。

 東北便は金沢市場輸送の保冷車で一番多い仕事となっていたので、その分慣れもあって、やりやすい仕事にもなっていました。九州の鮮魚の定期便のように京都市の辺りで大渋滞に遭う、同じく東京の首都高でも渋滞でトイレに行けない心配もなかったので、その分気楽でした。

 平成3年12月の中頃にも、金沢市場輸送の給油所で、被告発人安田敏の乗務していた三菱ふそうの大型ウィング車に同乗していた記憶が残っています。ちょうどジャスコ若宮店の笹寿司の弁当を彼に手渡していました。当日あったミーティングで出された弁当でした。

 この笹寿司の弁当ですが、鳥弁当と鮭弁当の2種類がありました。楕円形の木箱のような弁当でした。今年の4月1日になりますが、7年ぶりかに金沢市内に行った帰り、福久のイオンではなかったかと思いますが、ショッピングモールのようなところの笹寿司の店で鳥弁当を買いました。

 よく憶えていないのですが、平成3年当時とは鳥弁当の箱のデザインも変わっていたように思います。たぶんスマホで撮影した写真があるかと思います。

 ちょっとGoogleで検索をしましたが福久のイオンで間違いはないようです。家に戻ってから調べて知ったように思いますが、当初はサティだったようです。サティは同じような大型店舗が、金沢市のトラックステーションの近くにありました。

 サティ御経塚店となっていたかもしれません。近年のことですが、御経塚が金沢市ではなく野々市市らしいということを知って、少し驚いたことがありました。御経塚の交差点が国道8号線にあって、その角にはうつのみや書店があったのですが、ずっと前になくなっている気がします。

 平成10年の犀川まつりの当日になりますが、人混みが大嫌いというKYNが付き合ってくれて、日中に、その御経塚の近くのサティに買い物に行ったことがありました。これも記録にはあると思いますが、あらためて取り上げておきたい事実の一つです。

 Googleで検索すると、やはり御経塚のサティは現在、イオン御経塚店となっているようです。住所も石川県野々市市となっていますが、金沢西インターにかなり近い場所であるだけに、その辺りまで野々市市というのは、金沢市で生活をしていた当時の感覚として違和感があります。

 calコマンドでカレンダーの確認をすると、平成11年の第一土曜日、犀川まつりの日は、やはり8月7日となっていました。ちょうど花火大会が終わる頃に、若宮大橋だったと思いますが、車が混む中、被害者安藤文さんの自宅に向かっていました。

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