hatena-diary_20060826

[日記]報道と営利目的の過剰が日本を滅ぼす?

 仕事が終わってからしばらくして向かったので、遅い時間になっていました。サラ金の支払いが用事だったのですが、ついでに大型書店で本を見てきました。
 いろいろと発見があったので、ご紹介したいことも多いのですが時間も掛かりますので、それは後日ということにさせて頂きます。
 以前だったら、パチンコ屋でパチスロをしてくることが多かったのですが、2件見学だけしてきました。客の数も少なく、出ている台もあまりありませんでした。余りやりたいとも思わなくなりました。店舗乱立で今のところつぶれた店は知りませんが、客数が少なければ出すにも出せない状態に陥っている感じです。北斗の拳の新機種も出て一月も経つか経たないぐらいなのに、以前よりずっとお客が少なくなっていました。いよいよ行き詰まり斜陽化しているのかもしれません。パチンコの方はもっと客の数が少ないぐらいでした。
 とはいいながらパチンコ屋は今も昔も続いているので、廃れることはないかもしれませんが、そのうち競争に敗れるか、見切りをつけた店が出て淘汰されそうな気がします。
 不景気に強いとも言われる業界ですが、このあたりも世の中の変化の兆しとなっているのかもしれません。私のように抜くだけ抜かれて行くにもいけなくなった客も多いことでしょう。
 そんなこともあり、これまでとは違った気分、ずいぶん前のパチスロを始める前の頃の気分に戻れ、金沢の街を訪れた気がしました。
 中央市場を出たのは1時半頃になっていたのですが、その時間でも車の数は多く、営業している店もかなりありました。このあたりも一昔前とはずいぶん変わったと感じるところです。一つに考えられるのは派遣社員の数も増え、昼夜交代などの変則勤務の人が増えたためかもしれません。不夜城というほど大都会ではありませんが、さながらそれに近い状況であります。
 レストラン風のラーメン屋に入ったところ3時までの営業と知り、これも驚きました。若者の数自体は少子化の傾向で減っているはずなのに、遅い時間でも目につくのは若者の姿です。いわゆるニートという無職の若者が、あるいは溢れているのかもしれません。
 私が二十歳の頃はコンビニ自体金沢ではほとんどなく、深夜営業の店というのはごくごく限られたもので、灯りも少なかったように思います。一見すると豊になったとしか思えないのですが、社会不安はいや増すばかりなのかもしれません。
 今までは本屋に行っても、パソコンやプログラム関係以外の本を見ることはほとんどなかったのですが、今回はそれ以外の社会一般の本や、心理学、マスコミ関係、哲学、法律関係の本を手に取ってみました。時間が余りなかったこともあり、時間をかけて読むことも出来なかったのですが、新鮮さとともに時代の変化を感じ取ることが出来た気がします。
 それと中央市場に行ったのは、市場急配センターの状況を見ておくのが目的だったのですが、ますます盛況という感じで、トラックの駐車場まで増えていたようです。
 中央市場の周辺もずいぶんと様変わりして、近代的な建物がいくつかできて、活況を呈しています。中央市場の裏手には、バナナセンターというところがあるのですが、その前に市場急配センターの4トン車が2台止まり、金沢市場輸送のカラーの4トン車もいました。金沢市場輸送はつぶれたはずなのに、と考えながら、再確認するとキャビン(運転席の部分)のドア後ろ上方に社名が書かれていませんでした。これは本来社名をその位置に書いておくことが決められているそうです。
 金沢市場輸送はつぶれたままの状態でしたが、正面に割と新しい乗用車が一台駐車されていました。
 次のような本を見ました。無理をしてでも買いたいと考えていたのはプログラム言語Rubyの本でした。古くさくなっているのかと考えていたのですが、店頭にある日経ソフトウェアの最新号でRubyの特集が組まれていました。もう二ヶ月ほど前になるかと思いますが、しばらくネットで情報を得て、Rubyの勉強をしてみたのです。思ったよりすんなりと理解が進み、コンパクトな出来ればポケットサイズの専門書を一冊欲しいと考えていたのです。
 まだ少ししか触れていないのですが、Perljavaを組み合わせたような印象も受けています。存在自体はずっと前から知っていました。日本人が作者で、特にFreeBSDportsスクリプトでも使われていると聞いていて、関心を持っていたのです。他と比較して癖のある言語でもありますが、説明を見れば割と合理的でわかりやすく、いろいろと勉強になりプログラム自体の理解にも奥行きが深まりそうです。javaとことなりスクリプト言語なのでコンパイルの必要もなく、bashPerlPHPのように変数名にファニー文字($)を使わないで済む点も魅力的です。$をいちいち入力するのが面倒で、相当不精なのかもしれません。それでawkを使うこともあるのですが、機能がいまいちなのであまり実用的とは言えないのです。



共謀罪と治安管理社会―つながる心に手錠はかけられない

共謀罪と治安管理社会―つながる心に手錠はかけられない



中国の思想 (別巻) 中国の故事名言

中国の思想 (別巻) 中国の故事名言



この哲学者を見よ―名言でたどる西洋哲学史

この哲学者を見よ―名言でたどる西洋哲学史





決定版 刑務所の事典―カンカン踊りから懲罰房までこれがムショの掟だ!

決定版 刑務所の事典―カンカン踊りから懲罰房までこれがムショの掟だ!



Ruby プログラミング基礎講座

Ruby プログラミング基礎講座



実例で学ぶ! [入門と実践] Ajax+XML [CD-ROM付き]

実例で学ぶ! [入門と実践] Ajax+XML [CD-ROM付き]



Ajaxにもけっこう関心があるのですが、このあたりが私の本来の個人的な趣味なのです。
 時刻は4時半を過ぎてしまいました。今日は起きる時間を気にせず眠れるので気分も楽なのですが、なるべく早めに起きて、目的の作業に取り掛かりたいと予定しています。
目当てにしていた次の本は見つかりませんでした。しかし、刺激的なタイトルの本が多くなっているという印象を受けます。それだけの中味が果たして伴っているのか自分の目で確かめておきたい目的もありました。売れれば何でもよいという商業目的に走りすぎている嫌いが窺えます。
 結果はこのブログのアクセス数の少なさにもそのまま反映されているのかもしれません。
 そういえば次の本も初めの方を少しだけ読みました。

報道被害者と報道の自由

報道被害者と報道の自由



新版 報道される側の人権

新版 報道される側の人権



 どちらの本かはっきりしません。もしかすると別の題名の本であったかもしれません。はっきりしていることは初めに、東電OL殺人事件の作者を批判していたことです。「東電OL殺人事件」の本は平成14年頃に図書館で借りて読みました。次の本と一緒に借りて読んだように思います。詳しくはいずれ触れることがあるかもしれません。
検察の疲労

検察の疲労

 治安立法反対の足立教授の本も初めて少し読みましたが、ホームページやブログで出回っている上方がそのまま記載されており、詳しくは読みませんでしたが、「子供騙し」というのが強い印象です。わかりやすくというのが目的だったのかもしれませんが、分かりやすすぎて現実味がなく、まるでマンガの話です。そこが入り口で、詳しい説明がしてあったのかもしれませんが、先に読み進む気にならない人が多いように思えました。結果としては私の情報と同じなのかもしれませんが、あちらは書店にも置いてある立派な体裁の本でした。おそらく大学教授の肩書きも付されていることでしょう。確認しませんでしたが。
 総括すると報道メディア全体に「ぼったくりのパチンコ屋」という印象が強くなっています。そうでないのなら力を示せ、このブログにトラックバックを入れておけ、と言いたいところです。先に済ませておきたいことがあるので、対応は後回しになりそうですが。先に私からのメッセージを送っておきます。

トラックバック送信先へのリンク(一部):
http://www.wafu.ne.jp/~gori/diary3/200510281745.html
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/16521/
http://blog.goo.ne.jp/ukonkmy/e/aec0799ba6d1472481311898b4882888

■[話題]但木検事総長、経済犯罪への厳正対処方針を表明 03:25

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20060825AT1G2501S25082006.html

但木総長は社会が事前規制型から事後チェック型に変化していると指摘し「市民が自己責任を果たすためには、自分で判断する材料が不可欠。虚偽情報をつくったり流したりする犯罪には厳しく当たりたい」と訴えた。

ヒルズ族「成敗」後の凱旋報告のようですね。

気がついたら塀の内側に落ちていたり、拘置所の中で差し入れの弁当を食べていたりしないためには、経済活動について、刑事面、犯罪にならないか、といった観点からの、事前のリーガルチェック、ということが不可欠でしょう。

餅は餅屋、と言いますが、弁護士でも、刑事の分野については得手不得手があるので、その辺は、よく情報を収集して適切な人に聞いてみる必要があると思います。

気をつける必要があるのは、私のように、わからないことはよくわからないと率直に言って、他の適切な弁護士を紹介したりする、というのは、どうも少数派のようで、わからないのにわかった振りをして対応してしまう弁護士が多い、ということでしょう。民事であれば、余計なお金を払う、といったことで済みますが(それはそれで問題ですが)、刑事の場合は、身体がかかってきてしまうことになるので、経緯によっては、取り返しがつかない極めて深刻なことにもなりかねません。十分な注意が必要でしょう。
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060826#1156530334

http://benli.cocolog-nifty.com/benli/2006/08/post_9f4d.html
http://www.nhk.or.jp/human-blog/01/409.html
NHKはまたトラックバックを消しそうですね。時々こちらのブログを見に来ていることは承知していますが、隈なく調べたとは到底思えず、うろちょろしている感じです。その程度の判断力でよく報道機関が務まりますね。日本放送協会でしたか。)
 金沢放送局の宮下大輔記者は連絡を寄越さないまま、どうしているのでしょう。いずれ理由を明確にしてもらわなければなりません。報道機関という立場から。
http://blog.goo.ne.jp/hirono_2005/e/1fc77e4fc7a61fc2594168f9f85e8626

 時刻は5時24分になりました。とりあえず送信致しますので、よろしくお願い致します。

[お知らせ]サーバの不具合とブログ内の情報についての読み方

 時刻は15時14分になっています。6時を過ぎてからテレビもつけたまま横になって寝ていて、12時19分頃に起きました。
 昨夜のエントリで書き忘れたのですが、またしてもサーバの方に接続できなくなっています。昨夜は金沢の方である店にあるパソコンからこのブログの方にもアクセスしてみました。サーバへのリンクをクリックしても繋がらなかったのですが、出掛ける前に自分のパソコンからアクセスしたときも繋がりませんでした。
 朝、寝る前に自宅に電話をかけ、再起動を頼んでいたのですが、起きてからも繋がらない状態が続いています。このブログのアクセスも「はてな」のログを見る限り、あまり増えてはいません。検察としても無関心の強さに、懸念かあるいは危機感を強めているのかもしれません。サーバの挙動については、前々から時々おかしなことが起こっていました。ここ最近まではとても安定した状態が長く続いていたのですが、このところよく繋がらないようになっています。
 そういえば、昨日は自分のアパートのノートパソコンでもネットに繋がらない状態が続き、パソコンを再起動させたところ一発で直ったのですが、これも久しぶりの障害でした。
 ブログ内の情報だけでは理解に不足もあるかと思いますが、それ以前に見に来る人が少なすぎるようで、ちょっと刺激を与えて反応を窺うつもりで、サーバの接続を操作しているのかもしれません。
 一応そのような可能性もあるという話ですが、だとすればプロバイダが依頼を受けて操作している可能性が高そうです。以前石川県警察本部のホームページがあったようなプロバイダで、官庁の利用も多いと聞いています。ネスクというプロバイダですが、このこともこれまで何度か説明してきました。
 こんな説明も繰り返しているとデータ量自体がいたずらに膨れあがりそうです。度々繋がらないという障害も起こっていますが、ここに来ていきなり封じ込めの介入を行うなど考えにくいところです。とにかく今の検察は想像を超えるぐらいに積極果敢です。私がもたもたしていて、なかなか先に進んでいないので歯がゆい思いをしているのかもしれません。
 この説明だけ読めばやはりおかしいと思われてしまいそうですが、これまでの経緯を知れば、私の見解の意味もおわかり頂けると思いますが、何度も繰り返し同じ説明をするわけにもいかないので困ったところです。とにかく一度に読んでもらうには無理があり、トラックバックを入れたりしながら、このように細々としたご紹介や説明を行っているのですが、一番熟知しているはずの私自身ですら、以前の情報を探し出すのは容易ではなく、時間も掛かるのです。前もって含めておくよう心掛けているのですが、このように本題以外の記述も増えてしまっています。
 リンクを活用して目録のようなものを作っておくなり、整理しておく必要も痛感しているのですが、これも手間の掛かる作業になりそうです。
 数日間間を置いてしまいましたが、土日の休みでまとまった時間も取れるので、予定していた事実関係の記載の続きに取り掛かりたいと思います。膨大な情報量と思われるかと思いますが、それが本来的な犯罪事実の姿でもあるかと思います。分かりやすい簡潔な記載というのも大事かと思いますが、混乱、誤解や偏見の一因になりうるので、まず細かいところの具体的な事実を記載して置くのが目的です。
 さらにこのシリーズエントリの内容は、これまでの公開資料のなかで詳しく書いたことがない事実が沢山含まれるはずです。実名公開の意義と必要性についてもこのブログのエントリで説明済みですので、問題性を感じた方は調べてお読み願います。タグ機能のついたブラウザを利用した方がはるかに便利かと思うのですが、このあたりも知らない、意味が分からないという人の方が多いのかもしれません。使われているのであれば、リンクの部分を右クリックして、メニューから「リンクを新しいタグで開く」という機能を使える場合があるかと思います。私自身そのようにして使っていますが、それでも不便さや現状の技術の限界を感じることがあります。

 またしても前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります。平成10年秋頃の状況についての説明の続きです。平成4年4月1日を規準にした問題について、この時期の説明をしているので、初めて読む人はまったく意味が分からないと思いますが、これもその都度説明を繰り返すわけにはいかず、適宜過去のデータを読んで頂くしかありません。
 当時の状況について、私は現在の自分の記憶だけで書いています。詳細な記録も残っているのですが、長い間少なくとも4年ほど全く目にしたことがありません。オーガナイザというソフトで作ったデータなのですが、オーガナイザというソフトいうソフトについて説明するだけでも時間がかかりますので、後日ということにさせて頂きます。データは金沢地方裁判所に送付してあるものですが、秀丸エディタというソフトのマクロというプログラミング機能を使って整形されたテキストデータをファイルにしたものが中心でした。
 データのファイル形式には様々なものがありますが、パソコンにおいてもっとも汎用性の高いのがテキストファイルであり、それを扱うのに適しているというか機能を絞り込んだのがエディタというソフトなのですが、普通にWindowsパソコンを買ったままの状態で使用しているのであれば、それに該当するソフトは「メモ帳」です。意味の分からない方も頭の隅に入れておいて下されば、役立つこともあるかと思います。また、テキストファイルというのは改竄も容易なものです。基本的にブラウザを使って普通に読んでいるホームページのデータも、エディタを使って作成しているようなものです。
 ブログや掲示板の情報となると動的に生成されており、またデータベースサーバを利用していることも多いのですが、基本的にはテキストデータと同じようなものです。テキストデータはコピペも容易で、検索という使い方にも向いています。
 分かっている人には余計な説明かと思いますが、そのような機能を利用して活用すれば、全体の見通しもよくなると思いますし、そうでもしなければ迷子のような状態に陥ってしまうかもしれません。本のようにどこでもすぐに開けたり、しおりを挟むわけにはいかないと思うからです。
 ブログについている「日記の検索」を使うという方法もありますが、単なるホームページではなく、データという形でハードディスク内に保存して、活用して頂ければ幸いに思います。

[お知らせ]やはりサーバがおかしい

 先程ようやく繋がるようになったのですが、ログを見ると昨日中も今日もほとんど繋がっていたようです。昨夜私が金沢に店のパソコンからアクセスを試みた時間帯の前後にもログは記録されていましたが、よく見るとGET /robots.txtという検索エンジンからのアクセスがほとんどだったようです。無作為に繋がったり、繋げなかったりという操作が人為的になされているような感じです。
 検索サイトの「キャッシュ」を利用するという方法もありますが、権力捜査機関の動向をチェックしておくという意味でも、是非データの記録保存をお勧め致します。
 極端な場合は裁判所の民事裁判の仮処分や、検察、警察の令状請求でネットに繋がらない状態にすることは十分可能かと思われますが、そんな連絡を受けたことはこれまで一度もなく、繋がったり繋がらなかったりする状態であることがそもそも不自然です。
 間接的に記録させるというのが、捜査機関の目的であるのかもしれません。無視するという対応もあるかと思いますが、このような経過もあったということはきちんと記録されるべきです。あらゆる社会問題は検察、警察、司法不信に根を持っているわけですから。批判する側にも相応しい対応があって然るべきであり、いい加減に放置しておくとのちのち致命的な信用失墜ということに繋がりうるかもしれません。ひとたび検察が動けば、事態は一変するはずです。

[時事]地球環境について

 昨夜、次のブログを発見しました。
http://blog.goo.ne.jp/kukey_2006/

[告訴事件]組織犯罪と法的救済について(10)

 時刻は22時34分になっています。夕方にアパートを出て、古本屋で本を見てからパチンコ屋に行き、4千円負けてきました。記録的な大連敗の更新中です。時間があるのに全く集中できず、気晴らしにやってしまいました。割とよく掛かったのですが、全然増えずそのうちなくなりました。リスクも少なくリターンも少ない羽根物のパチンコをやっていました。
 アクセスも増えないままでついつい気が滅入ってしまいます。心理学的にも無視されるのは一番つらいと聞いたことがありますが、自分でもよく分からないほどこたえるものです。それだけ思い問題であるという認識だけは得ているのかもしれません。それとも気が触れているとでも思われまったく相手にされないのか。
 これから書く事実は、とても重要な部分であり、ここまで長期化した事実上の要因です。私自身にも落度や弱さがあったとは思いますが、侵害や働き掛けの程度によっては誰でも相当の悪影響を受けるか、もっと最悪の事態になっているかもしれません。
 重いテーマでもあり、私自身不思議なほどこれまでなかなか手をつけることが出来ず、踏み込めなかった事実です。パチスロ、パチンコ、サラ金と転落の道を進んでいますが、本当に将来に希望が持てなくなってしまいました。追い打ちをかけたのが、ネットでの反応でした。理解を得るのもとても難しい問題なのかもしれません。
 刑事裁判も同じですが、手を出した方が負けという事実上の鉄則があります。平成4年の事件と異なり、それが直接に転落のきっかけになったわけではなく、現在でもパチスロなどしていなければ、そこそこ平均年収にも近い、相応の生活が出来ているのかもしれません。
 ただ他の人と異なるのは、私の場合どんなに努力しても報われないような不当な悪条件を背負わされてきたことです。逆境の荒波にもまれ、人並み以上の実力も身につけることが出来たと思ってはいます。それと同時に人並み外れた生き様が孤立化を深めることにもなってきました。
 努力し苦労している人もいくらでもいると思いますが、本当に報われることが少なく、社会的信用、仕事上の技術、資格取得、人間関係等将来に繋げる資産を蓄えることが出来ませんでした。

 小森建設にいたとき、社長に次ぐ地位で事実上会社を切り盛りする立場の人がいて、私とそれほど年も変わらなかったのですが、少し事件のことを話したところ、「やめておけ、他の社員の生活がどうなる」と言われました。被害に遭うことは稀だと思いますし、落度が推定されても致し方のない面はあるかと思います。逆に見れば、どんな手段を使っても金や地位を手に入れてしまえば、後はどうにでもなるという風潮が是認されることに繋がります。
 必ずしも法的解決、法的救済が妥当なケースばかりではないと思いますが、どうかそのような視点からもこれからご紹介する事実について考え、感想、ご意見でも頂ければ幸いであり、同じ市民の側からの声として検察庁に届けたいところです。

 平成10年の秋頃のことから書きます。私の記憶も断片的であり、物語や小説ではないので道筋がはっきりしているわけでもありません。自分の体験以外に蒐集できるデータもなく、本来このような事実を書くのはかなり難しいことです。それも人に伝え、理解を得るとなればなおさらかと思います。それもあって気後れする面もあるのですが、これをやり遂げねば先に進めないという危機感も持ち合わせています。予定より半年以上も遅れてしまい、パチスロで膨らんだサラ金の借金も大きな負担になってしまいました。
 ここを先途という思いもありますので、少々長くなるかと思いますが、読んで頂ければ幸いです。ただ、これは私個人の問題のみならず、等しく市民生活全体に及びうる問題であることも念頭に置いて下さい。本来、検察も裁判所も膨大な事件処理が滞っており、出来るだけ間引き、手短に処理する傾向が強いと聞いております。その司法が、私の問題に関しては無制限とも言える時間と機会を与えてくれています。それだけ大きな意義もあると思えるので、感情論などにとらわれず、時には自分の身に置き換え想像力を働かせ、加害者あるいは被疑者の立場にも立って考え、別の道筋に至った場合も含め一つ慎重に吟味して下さい。全く同じケースというのはあり得ないはずですが、似たような事例は今後も出てくるか既に多発している可能性もあると考えます。

 前置きが少々長くなってしまいましたが、本題に入ります。
 加田義満が自宅の奥隣にある住宅を購入したことはすでに書きました。しばらく姿を見せなかった大網健二が私の前に姿を見せるようになったのもその頃からです。
 一応事務所というかたちで一階の一部屋だけを使っていました。もともと住宅でしたが、そのダイニングキッチンというのでしょうか、板張りのリビングのようなだいたい10畳から12畳ぐらいの部屋でした。一階には全部で部屋が二つかあるいは三つしかなかったのですが、8畳ぐらいの和室があり、使うようになって間もない頃、その和室の部屋に大網商事の社員が集まることがありました。
 簡単な祝いの場で、缶ビールとつまみだけがおかれたような状態でした。この時のことはごく断片的にしか記憶が残っていません。憶えているのは、バッサこと干場茂幸が金沢市内上荒屋あたりに以前大網健二の世話で購入したという住宅について、少し不満を漏らし、大網健二が少し反論を加え、すぐにおさまったという状況でした。
 それからしばらくして、事務所の方に2台の業務用のコピー機がおいてあり、加田義満が大網健二がくれた、どちらか選んでお前にもやると言っていた、といわれ、比較的新しめで小さい方のコピー機をもらって帰りました。
 もう一台は数種類のコピー用紙を収納できる業務用でも大きいサイズのものでした。どちらも古いものではありましたが、お金を出して求めるとなればけっこう値がはりそうなものでした。
 この件について、私は再審請求に大網健二が協力してくれたとも解釈していたのです。同時に不信感も根強く持っていたので、コピー機に仕掛けをしてあるのかとも考えたことがあります。少し使うと紙詰まりを起こし使えなくなったので、それ以降使うことはありませんでした。
 11月に入ってからだったと思いますが、夕方現場の仕事から戻ると大網健二がいて、加田義満と三人で西金沢駅のすぐ近くにある新築でオープン前の小さな居酒屋に行きました。何かクーラーの取り付けのような話で、見積もりをかねて現場を見に来たような状況だったのですが、大網健二はよくその家の購入者の女の人の話もしていました。
 それが「一水」という小料理屋と言いますか小さな居酒屋で、オーナのママは50代後半から60代前半の人で、ちょうど金沢市場輸送の竹沢夫人と似たような年格好でした。大網健二の話によると片町という金沢の繁華街のクラブで働いていて、独立したような話でした。このような話を聞いたのは実際にその店に客として行くようになった翌年(平成11年)1月20日頃のことです。
 水商売のベテランであり、それだけに顔も広く人脈も得ているという印象の人物でした。
 そのオープン前の小料理屋から加田義満の家の方に戻り、それから近くの居酒屋に飲みに行った覚えがあります。この時ママの姿はなく、三人だけで、家財もほとんど置いてない状態だったと思います。
 近くの居酒屋というのは50メートルも離れていないほどの同じ通りに面した店で、「虎や」というような名前の店でした。この店も出来たばかりで、オープンして間もない頃でした。そしてこの時がたぶん店に入った最初だと思うのですが、それ以降、3,4回ほどその店に行くことがありました。
 最後に行ったのは、平成11年の3月か4月頃で、その時は加田義満と二人だけで、私はお金もないのに代行タクシーを呼んで帰りました。この時は彼も落ち着いた様子で、友達らしい態度で話をしていました。
 三人で居酒屋に行ってしばらくすると同じく夕方に大網健二が事務所に来ていて、事務所を借りて講習会をするような話をしていました。大網健二は抱負を語るように「総合建設業」という言葉を何度も口にしていました。
 そのための社員教育のような話で、金沢の大学から講師を招き経済に関する講習を行うと話し、加田義満に事務所を借りると言っていたのです。
 数日後でしょうか。同じく夕方に事務所に戻ると大網商事の若い社員が数人集まっていました。私は他に用事もあったのか、講師が来る前に家に帰ったのですが、本当に大学から講師が来るのか少々訝しく感じていました。疑っていることを悟られたくないという意識が働いていたと思います。
 当時すでに阿部穣二氏の小説を読んでいたと思います。拘置所で読んだと思うのですが、小説のなかにはしきりに「絵図を描く」という表現がされていて、大網健二がそれまで姿を見せなかったことや登場すると同時に、私に吹き込むようなかたちで、話を持ち出していたので不自然にも思え、絵図という計画を企んでいるように思えたのです。確かにそれが、布石であったのかもしれません。
 当時の私は再審請求さえ始まれば、大網健二らも妙な下心を諦め、手出しはするまいと考えていたのです。大網健二が計画を持って動く目的も、当時の私には浜口卓也への協力ぐらいしか動機、目的が想定できていませんでした。後は感情的な問題です。彼はずっと以前より、人の幸福を快く思わず、同情をかけることで満足するような一面があり、同時に親身に世話をしてくれることがありました。
 性格の問題ですが、そこまで踏み込んで非難し問題視するのも大人げないと私は考えていたのです。父親の殺人事件のこともあり、私だけが再審で救われるような立場になれば、彼としてもいたたまれないであろうという理解もあり、父親思いであった大網周一であれば、なおさらのことかもしれないと考えていました。
 それ以前のことでいつ頃であったのかはっきりしないのですが、たぶん夏か秋頃のことです。加田設備工業では日曜日以外の休みというのはほとんどなかったので、日曜日のことだと思います。一応平成9年の秋頃であった可能性もあるのですが、このあたりも記憶がはっきりしないものの、その当時であれば、私は小森建設をやめた後で、家でぶらぶらしていたことになるかと思います。
 確かなことは言えないのですが、平成10年の夏頃であった可能性が高く、日曜日であったと思います。他にも似たようなことはあったのですが、大網健二は日曜日に会社で電話番をすることが多いらしく、車で3分ほどの距離であったこともあり、時間の合間に私の家に来ることがありました。
 とにかく一度来て、私に自分のノートパソコンのデータファイルのバックアップを頼んでいったのです。パソコンの調子が悪いので再セットアップするような話であったかもしれません。彼に指定されたフォルダのデータなどバックアップしたのですが、その中には「浜口邸新築工事」などというファイル名の見積書のようなものがありました。
 気になったのでファイルを開いて中味を見ました。たぶんワードの文書ファイルであったと思います。現在もどこかにコピーしたものがいくつか残っているはずなのですが、長い間見たことがないので正確なことは思い出せないのですが、だいたい物件の総額が4500万円ほどで、頭金が1500万円であったと思います。
 平成4年当時浜口卓也はアパート住まいで数年の間によくこれだけの頭金を貯めることが出来たものだと不思議に思っていました。
 その時の大網健二の雰囲気からもバックアップは口実で、そのデータを私に見せることが目的である公算が高いと考えていました。利益誘導の示唆をしたかたちにもなるかと思います。彼らの意図に乗っていれば、真相の発見も早かったのかもしれませんが、私はそれ以上の危険を感じ、着実に危ない橋を渡らない道を選びました。
 大網健二が浜口卓也のために動いている可能性はかなり高いと考えていましたが、浜口卓也自身の事件の関与については、それほど深いものとは当時は考えていませんでした。それまでに頭に入っていたデータだけでもより強い嫌疑を抱くべきであったのかもしれないのですが、私は無意識にもそれを避け、矮小化したかたちで捉えようとしていたようです。なにより私は安藤文との再会、結婚を心底望みとらわれていたので、友人は失いたくなく、出来れば協力も得たかったのです。
 思いとは裏腹に大網健二や加田義満には、これでもかと言うぐらいひどい反対を受けていました。しかし時折、理解や協力の姿勢を窺わせることもあり、自分の努力不足も感じていたのです。
 私が福井刑務所に入っている間に、二人とも金沢に家を構え、加田義満は独立して商売を初め従業員も雇っていましたし、大網健二も本陣不動産で営業課長になるほど栄達していたのです。私同様高校中退である彼が、その年で課長に抜擢されるにはそれだけの努力もあったものと考えていました。
 私自身、自分で彼女を殴り大怪我を負わせた事実に間違いはなかったので、負い目もあり、理解を得るのも簡単ではないと考えていました。大網健二の父親の問題であるので、なおさら現実は厳しいと心得ていたのです。
 その父親の事件についても私はまだ詳しい説明をしていないと思います。
 何度も同じことを書くようですが、平成9年1月18日に私は福井刑務所を満期出所しました。当日の夜に宇出津の実家に戻り、7月の初めに金沢に出るまでずっと家の方にいました。このブログの最初の方でも書いてあると思いますが、そんな生活が出来たこと自体、本来あり得ないことです。
 私は無職無収入で、母親は2ヶ月で8万円程度の年金生活者でした。福井刑務所を出たときの作業賞与金は多くても3万円程度だったと思います。
 私は刑期の中頃に一度同じ工場の受刑者と口論をし、それで3日間の懲罰を受けたのです。それで作業賞与金の全額没収を受け、算定額の規準となる等工も一番低いものに下がったので余りもらえなかったのです。
 初めというのは一月に500円程度で、一番多くもらったときでも6千円程度だった思います。懲役4年の刑期でしたが、未決勾留が長く残刑期が2年半程度の服役だったと思います。逮捕されてからになると4年10ヶ月ほどの拘束期間がありました。
 当時はパソコンや法律の勉強に明け暮れていました。たまに外に出ることもありましたが、車もバイクも持っておらず徒歩で出掛け、たまに金沢に行くときは電車を使っていました。
 この時は、運転免許の期間切れで、学科試験の再試験も受けに金沢の免許センターにも行きました。金沢刑務所を出たときも免許センターに電話で問い合わせをすると再試験だと言われたのですが、実際は講習を受けるだけで済みました。
 本を読みテレビを観ることも多かったのですが、そんな折りにニュースで大網兄弟の父親が殺人事件を起こしていたことを知ったことについては、説明済みかと思います。
 ニュースが終わるとすぐに加田義満の金沢の家に電話をかけたのですが、加田義満は重苦しい態度で、多くを語ろうとはせず、出しゃばったまねをするなと強く釘を刺していました。聞いた話は、悦子という神戸に住んでいる妹が泣き続けていたといういかにも悲惨な話でした。
 それからすぐに大網健二本人からも事件の話を聞くようになったのですが、彼は父親のしでかした事件にひどく腹を立て、ものすごい迷惑を受け大変な思いをした、今やっと落ち着いた状態になれたが、当時のことは思い出したくもないという感じでした。
 私の方から聞くというか話題にすることもなかったのですが、ちょくちょく彼の方から事件に触れて話をしてくることがありました。マスコミの報道被害のようなことも言っていました。
 父親に対しては、腹立ち以上の憎しみさえ露わにし、「あいつ」という言い方を連発していました。
 様子が少し変わったのは、その平成9年の秋頃のことで、私のアパートに来ていたとき、NHKから特番を組み取材依頼を受けたなどと、少し誇らしげとも思える口調で語ったことがありました。
 自分の方から、事件の被害者が自動車学校に通っていたとか、その教員がどうしたとか、その自動車学校の関連で今の円光寺の自宅を購入したとか、ちょうど契約にさしかかった時期であったとか、そのような断片的な話を聞かせてきたのですが、私はなんの話か分からないのと同時に、深入りは避け、さも関心のない素振りで聞き流したのです。
 事件の新聞報道については、昨年あたりも図書館で縮小版の記事を少し読み、それをデジカメで写した写真もこのブログに登録してあるはずです。それからも私の記憶は曖昧になっているので、はっきりしたことは言えないのですが、被害者の二人の少年は、大網周一が社長をする大網商事の社員かやめた直後の社員でした。
 大網商事の従業員に会うようになったのは、その後であったと思うのですが、教育がよく行き届いているというか、イメージとしてはヤクザの親分子分の関係であり、それより右翼団体の教育に近いものが感じられました。一方で割と自由に放任しているような一面を見ることもあったのですが、ほとんどは若い上に、礼儀もよく明るくてはきはきした社員ばかりでした。
 少し違っていると感じたのは、平成4年の9月10日頃、金沢市内大場町東の大網健二の自宅で大網周一の結婚祝いの飲み会が催された席でのことで、当時の社員らしき若者の数は3,4人ぐらいと少なかったのですが、極端に大網周一を怖れ、いいなりに従っているように見えたことです。
 もともと大網周一という人間の性格、生活様式、行動パターンについてはよく知っているつもりで、昔と変わらない部分が多々あり、私のような同じ地元の後輩の場合、周一の先輩になるような人との付き合いや交流もあったので、彼もある程度配慮したような言動態度もあったのですが、それがない社員に対しては理想通りの教育を施したような様子に見えました。
 新聞報道では、その周一の存在など眼中にないような振る舞いで、高圧且つ執拗に貸した金の返済を迫り、その挙げ句に殺されてしまったような報道になっています。当然初めから違和感は覚えていましたが、父親のギャンブル癖、借金癖についてもよく知っており、それだけ大網健二、大網周一の兄弟が迷惑を受け、見放したあとの事件という解釈も出来たのです。
 確かに彼ら兄弟は父親の被害者という一面があったのです。
 宇出津の町については「告訴状(途中)」においてやや詳しい説明を済ませていると思います。彼の家は宇出津の中心部であり商店街である国道沿いの並びにあり、建物自体は古いものでしたが、まるで旅館のような大きな家でした。
 さらに彼の家の側面は梶川という小さな川(それでも宇出津では唯一一番大きな川です。)に面していて、その前は、宇出津のあばれ祭りでも最大のメインイベントといいますか見せ場である川への御輿の投げ込みが行われる場所で、見物人がごった返し、川の周囲には人集りが出来ていました。その上彼の家の部屋からはその様子が一番見やすい特等席のようなもので、人が集まりとてもにぎやかなものでした。このことも彼ら兄弟に特権意識のようなものを植えつけ、地元宇出津に対する愛着心も人一倍強かったようです。
 少年時代の大網周一の特攻服(暴走族の制服のようなもの)には、確か「暴走貴族」という刺繍もしてあったかと思います。その落書きをすることはよくありました。はっきり憶えていてより印象的だったのは、特攻服に「憂国遊戯」という文字を入れていたことです。
 当時の暴走族は、右翼団体街宣車に書かれているような文字を使うことも普通でした。普通は「憂国烈士」と書いていたはずです。
 「国のことを心配して、遊ぶ」とも自ら講釈をたれていましたが、これは余りにも不合理な組み合わせに思えていました。
 大網健二と大網周一というのは、大網健二が中学生の頃は折り合いが悪く、大網健二の方が大網周一を不良だと軽蔑していました。当時の大網健二は、極真空手に励み、電車で1時間半から2時間はかかった七尾市極真空手の道場にも通っていました。私自身彼に誘われて、一緒に七尾の道場まで行ったこともありました。
 彼は中学時代から他の同級生とは異なる考え方を持っていたようです。このあたりも特権意識の表れであったように思えるのですが、地元の高校に進学するつもりははなからなかったらしく、金沢の私立金沢高校に入学し、アパートで一人住まいをしていました。
 男子生徒では他にも一人地元の公立高校の受験に失敗した同級生が同じ金沢高校に行き、他にも一人相撲部の部員で、相撲のスカウトで金沢高校に行った生徒がいました。大網健二以外の二人はそれぞれ事情があって金沢に出たことになりますが、大網健二の場合、より都会的な学生生活を満喫したいとか不純な動機も含まれていたように思います。気位が高かったとも言い換えることが出来そうですが、調子を合わせていれば、親切な一面も多い男でした。
 実は私は自己主張が強い一面と、こだわりを持たず相手に合わせるような一面があり、それで彼ともうまく付き合えていたようです。グループとしての付き合いには彼も参加をしたり、彼の家に遊びに行っていましたが、彼が個人的に誰かと二人で遊ぶという関係は余りありませんでした。
 その上、兄の大網周一も二つ年下の妹も学年の不良グループでは、リーダ的な中心人物で、大きな家もそのたまり場であり、社交場のようにもなっていたのですが、大網健二の方は同級生でもあまり目立つことが出来ず、そのあたりも鬱屈した気持ちに繋がっていたのかもしれません。
 もともと当時の宇出津の若者というのは、個性が強くまとまりもよくありませんでした。学年毎の個性も強く、違いが結構あり、二つ年下の妹らの年代はその点まとまりもよく、仲良しグループという印象がありました。どちらかといえば、私も大網健二も一つ年下のグループよりは、二つ年下のグループとよく遊んでいた時期がありました。
 この一つ年下の学年の8,9人と二つ年下の学年の3,4人が、前に紹介しいた万寿山の傷害事件を起こしたのです。
 このグループのリーダ格であった前田恵一の母親は私の家の機織り工場の授業員の一人で、機織り工場でもリーダ的な存在でした。私の父親の墓がある前田強の母親とは姉妹の関係であり、二人とも機織りの仕事をしていたのです。
 恵一とは幼なじみに近い関係でもあり、小さい頃から時々一緒に遊ぶことがありました。小さい頃は勉強も出来るという孝行息子で、母親は自分の息子を自慢し、子分のような他のおばさん達もそれを持ち上げると同時に、私のことを馬鹿にし、話のネタにするとともに、あげつらい優越感をも満喫していたようです。
 私自身、変わった子供で素直ではなくかわいげもなかったのかもしれません。大人に対しても媚びへつらうような全くしませんでした。確かに現在の常識では考えられないほど馬鹿な一面もあったと思いますが、それが当時の宇出津周辺の粗野、野蛮とも言える町の特徴、風潮でもあったのです。
 私より乱暴者は沢山いましたが、大人に対しては割と従順であったのかもしれません。
 物心ついた頃から母親のことを「クソババア」と呼ぶことがあったくらいで、わがままで言うこともききませんでした。
 少年時代になるとステレオの音楽をフルボリュームで鳴らし、100メートルほど離れたところまで聞こえるぐらいに鳴らしていたこともあるのですが、今考えても不思議なぐらいそのことで非難を受けることはありませんでした。
 機織りの従業員に対する当てつけで、アナーキーというバンドの「団地のおばさん」という曲を鳴らすことも度々あったのですが、「うちの子だけはうちの子だけはと、吠え立てて、....欲求不満のあのおばさん」という歌詞も含まれる曲でした。
 アナーキーというバンドについては同世代の人でないと分からないかもしれません。イギリスのクラッシュというバンドの曲もコピーし、独自の歌詞をつけていました。「東京イズバーニング」という曲では「頭っくるぜ、まったくよ、ただメシ食ってのうのうと、何が日本の(ビィーという消去音)だ、なんにもしねえでふざけんな」という曲も歌っていました。
 よくあれで右翼が黙っていたのか、問題にならなかったものだと思います。原曲は日本語で書くと「ロンドンは燃えている」でした。アナーキーというのは無政府主義者のことを指すようです。
 これも当時の世相の一つとしてご紹介したものですが、昔話を書くことが目的ではありません。当時のことで、とても不思議でありいまだに理解に苦しむことがあるからです。
 というのは恵一らを立派な不良少年に育て上げ、バックアップしていたのが大網周一であり、新聞の一面トップに掲載されるような大問題にまで発展し、親のダメージや心配も相当なものであったと想像されるところです。
 しかし、誰一人として大網周一を批判する者はいなかったようです。大網周一の家は宇出津の一番大きな書店の向かい側にもあり、川沿いの道路からも丸見えなので、出入りするのにもとても目立つ場所でした。当然、中学生が出入りしていたことも周知の事実になっていたはずです。
 その事件の参加者の一人で、私の二つ年下に大森朋彦という男がいました。その事件を起こした2年後ぐらいになりそうです。その頃はよく一緒に遊ぶことがあったのですが、ある日警察がお前を捜し回っていると聞かされるようになりました。ちょうど昭和56年の12月頃のことです。
 当時私は鑑別所を出た後の試験観察中だったので、これはやばいと思い、ほとぼりが冷めるまで諸所を逃げ回っていたのです。時には雪の降るなか農業の作業小屋で時間を過ごすこともあり友達の家の家人が仕事に出てから、勝手に上がり込み、冷蔵庫の物を引っ張り出して食べたりしました。
 大森朋彦の家でも、夜中に冷蔵庫を物色に行き、父親と母親に見つかって、父親は開口一番「廣野や、警察に電話しろ」と叫んでいました。
 同じ辺田の浜の町内で幼い頃付き合いもあったので、よく知っていたようです。彼の母親は宇出津の能都町役場に勤めていると聞いていたので、公務員という良識も高い人間になりそうでした。
 子供のことが心配でたまらず、冷静さを失っているとは感じていましたが、あとでその母親らが警察に相談をして、私を捜していたと知りました。
 他のこともあり、宇出津の港にある小さなコンビナートの岸壁で、1月頃雪のちらつくなか、大森朋彦に対するお仕置きとして、海に飛び込めと行ったのです。そのうち突き落としてしまったのですが、彼は泳げなかったのか溺れだし、横を見ると怖い顔でおじさんが睨んでおり、寒そうだったのでためらいもあったのですが、海に飛び込んで彼を引き上げたのです。彼は泣きながら歩いて家に帰って行きました。
 私とつきあい始めた頃、彼はすでに立派な不良少年で、好き勝手なことをしていたのに、親に警察に相談されたのはまことに割の合わない話だと感じていました。
 このようなことになったのも、機織り工場のおばさんたちのはけ口にされていたのも、私自身の問題性もあるかと思いますが、それ以上にはっきりしていたことは、私には父親がおらず、なめられて攻撃しやすい条件があったということです。いじめの一種のようなものでもあったのかもしれません。
 土地柄というものもありそうですが、私は宇出津で育ちながらも、大人社会との付き合いもほとんどなかったので、いまだによく分からない部分もあるのです。不利となれば連帯する結束力は強そうです。警察官も地元には遠慮がちであったという印象がありました。
 崎山と言うところに警察の家族の宿舎があったのですが、石川県の警察官は県内の警察署を転々と転勤しながら生活していると聞いていました。
 大網家の話に戻りますが、彼の家はただ大きいだけでなく、プロパンガスやガス器具、ガスコンロなどの販売をし、これは大通りに面していましたが、後ろ側は大網自動車という自動車工場を経営していました。
 それだけ裕福な家でもあったようですが、一代で築き上げたのは大網健二らのおじいさんでした。大網健二に言わせれば、おじいさんが厳しすぎて親父がおかしくなったという見方でした。父親がギャンブルで作る借金のため、家の一部は売られて別の商売の店が入っていました。あるいはまだ中学生の頃だったかもしれません。
 買って別の商売を始めた人は、これも私の幼なじみが息子だったのですが、同級生の娘もいました。大網健二にしてみれば、そのあたりもかなり屈辱であったのかもしれません。わずか数年後にはその家族自体、借金で離散して夜逃げをしたと聞いています。ちょうど200海里問題で宇出津の町も不景気のどん底に陥った頃の話でした。
 夜逃げや自殺が続出したと聞いております。ちょうど私が金沢市場輸送で4トン車の長距離運転手をしていた時期なので、昭和59年ということになりそうです。今のロシア、当時はソ連と呼んでいましたが、その間で漁業を巡る国際的な衝突が起き、大打撃を受けたそうです。意味自体当時はよく理解できませんでしたが、200海里問題はテレビのニュースでもしきりに報道されていました。
 そのうち拿捕という言葉をよく聞くようになったのですが、小木や姫の遠洋漁船が対象だったようです。八千代丸事件といい北朝鮮に銃撃を受け、船長か船員が死亡するという事件もありました。
 深刻だったのは、拿捕されたりすると一定の長い期間船を動かすことが出来なくことで、港に繋留され放しになっていると聞いていました。小木の港に何隻かまとまって係留された船を指し、漁に出られなくなった船だと誰かに説明を受けた憶えもあります。
 宇出津はもともと近海の近場での漁がほとんどの港のはずなので、それほど深刻な影響もなさそうでしたが、小木や姫の船の船員も多く、同時に漁が不振になったことで、大工など仕事がなくなりほとんど失業してしまったと聞いていました。
 加田義満の話によると姫などは石川県で一番住宅の新築率だったが高かった時期もあるそうです。宇出津でも町の半分は漁業関係者で占められていると聞いたことがありましたが、小木や姫ははるかに漁業関係者の比率が高かったはずです。
 私自身漁師の仕事はしたことがなく、漁師の家との付き合いもありませんでした。友達が漁師をしていたり、その家が漁師であったという程度で、間接的に聞く話がほとんどでした。それでもまわりには漁師も大方ので、いろいろ話を聞くことがありました。20年以上前のことなので、あまり憶えてもいないのですが、印象的に記憶に残っている話もあります。
 まず遠洋の漁船では、一度海から落ちるとまず助からないという話です。初めはそんなこともあるまいと考えていたのですが、理由を聞くと沖ではとても潮の流れが速いこと、カッパを着て落ちるのですぐに体力が奪われ動けなくなること、潮の流れもありいったん船を停止させるかUターンして落ちた場所に引き返そうとしても時間がかかり、その間に沈んでしまっていることなどが挙げられていました。
 それと同じ船に同乗した人間が続けて死ぬことがあり、誰かが故意に突き落としていたのではないかという冗談交じりの話もありました。考えてみれば、警察が現場検証など出来るはずもなく、やる気があれば完全犯罪の成立です。
 それに漁師というのは、仲間意識が強くて結束も固く、自分らを陸の人間と区別する傾向がありました。大網健二などは相当強く反発を感じ、毛嫌いするようなことも口にしていましたが、兄と妹がリーダ的存在であったのと似たような彼特有の僻みも感じられました。
 他にもヤクザのことを「ヤッチャン」と利用すべき馬鹿のような抑揚、口調で話すのも特徴の一つで、サラ金のことも「サラちゃん」と呼んで一応有り難がっていました。
 私自身、直接耳にすることはなかったのですが、中学生時代の頃も父親が泥棒で逮捕されたような話があり、大網健二自身が話していたところでも、高校一年生のとき金沢市大和町のアパートで、父親が逮捕され、盗品とは知らずに腕時計をもらっていたということです。
 盗み癖は、大網健二も大網周一も小学生の頃にあったようです。大網周一はほとんど変わりなく成長していたようですが、中学生の頃の大網健二は勉強にも励み、極真空手に熱い情熱を傾けていました。それは極真空手の全盛期でもあったはずです。ブルースリーというカンフーのスターが一世を風靡した時代でもありました。
 大網健二のおじいさんについて私が抱いていたイメージは、ホンダ自動車の創始者である本田宗一郎氏と重なるものでした。松下電器創始者も今ではそれほど有名ではないのかもしれませんが、当時はいずれもとても有名で、並はずれた偉人そのものだったのです。
 大網健二も厳しいと反感を訴えていましたが、むしろ大網健二の方が甘えているという気がしていました。父親の方も大網健二のことは「ケンちゃん」と呼んでいましたが、当時の宇出津ではかなり珍しいことでした。自分のことを僕と呼んだり、パパ、ママと呼ぶ子供など一人もおらず、口に出せばそれこそ死ぬほどの恥辱を与えたれたであろう風潮があった時代です。
 小木あたりではその傾向がいっそう顕著で女の子でも自分のことを「オレ」と呼び、「ゲッーサァ」という言葉を連発していました。宇出津では余り使われていませんでしたが、「うっそー」とか「冗談じゃない」、「ふざけるな」というような相づちの言葉の意味があったようですが。お尻の穴に語源があるともきいたことがありました。「ケツの穴」の省略にあたるそうです。真偽は不明ですが。
 漁師の少年が無免許で大型バイクを乗り回し、段ボール紙で作ったナンバープレートをつけ、それに対して、怖れて縮みあがっている派出所の警察官が何も言えなかったような時代環境でした。
 すでにかなり危ない状況だと耳にすることがあったのですが、私たちが18歳位の頃におじいさんが亡くなり、まもなく家が丸ごと人手に渡り、彼らは音羽町の古い小さな家に住むようになっていました。
 音羽町は私の家のある小棚木の隣の町内で、家の道路を面した向かい側にもなるのですが、町の中心部に近い方は、昔遊郭という事実上の売春宿があったところで、その面影もかなり残した一画でした。
 そちらに移るようになると兄弟の生活も金沢が中心になっていましたが、規模が小さくなったとはいえ、たまり場として集まる場所にもなっていました。
 そのうち、おじいさんが亡くなって2,3年後ぐらいに大網健二らが「おばちゃん」と呼んでいた家政婦のような事実上の女主人のような人が亡くなり、その家に常時住む人もいなくなり、そのうち引き払ったようです。
 宇出津という町は小さな町ですが、私が知らない人も多く、知らないことも沢山あります。むしろほとんど知らないことばかりと言ってもよいぐらいです。少し離れた家の名前も分かりませんし、家族構成も分かりません。
 当時で能都町全体で1万5千人ほどの規模であり、その中心部であった宇出津も人口は1万人以下であったと思います。7千人ぐらいという数字もずっと前に目にしたような記憶もかすかに残っています。
 大網家はその宇出津でももっとも目立つような家の一つでしたが、今では知る人も少なくなっていることでしょう。父親の放蕩ぶりが激しく家が傾いたこともあり、彼ら兄弟に同情する向きも少なくはないと考えられます。
 それだけ大網周一らの世間に対する体面がよかったということにもなるかと思います。実際、彼ら自身の努力もあり、大網健二は石川県内でも屈指の不動産会社の営業課長になり、大網周一も10人ほどの従業員を雇う有限会社の社長になっていたのです。
 相応の評価を受けるのもある意味当然のことかと思います。同情の向きが強いのも容易に予想できるところであり、それだけでなく彼らは周囲に対する恩義の施しにも執心していました。
 私はその正反対のような一面もあり、偽るようなこともしませんでしたが、利益供与のような施しもしたことがなく、自分をよく思わせようと言う努力をすることもありませんでした。
 精神鑑定で調べられた子供の頃の先生の評価では、「親のいうことを全く聞かない、頭に来ると見境もなく飛びかかって行く、しかし愛するべき点もある」などということが書いてあったようです。初めの方は確かに肯けるものですが、後ろの部分はかなり意外でもあり、考えさせられました。
 正確な表現は精神鑑定書に記載してあるので、いずれご紹介したいと思います。宇出津の町というのも当時とは様変わりしていて、別の世界に思えることもあるぐらいなのですが、狭い了見と同時に、懐の大きな寛容さで自分という人間をも育んだような思いも抱いています。
 ものごろついた頃から、激しくぶち壊し暴れるほどに喜ぶという神様の信仰が祭りに象徴されていたぐらいなので、その影響も少なからず受けているのかもしれず、これも理解を得られがたい溝というか一つのハードルとなっているのかもしれません。
 過激激情という点では、小木の方がはるかに勝っているぐらいで、祭りをする度に家が壊れ、死傷者が出るので中止になっていると聞いていました。実際に見たことはないのですが、聞いた話によると有名な大阪のだんじり祭りに似ているそうです。あちらは数万人から数十万人の規模で死傷者も出ることがあったそうに聞いておりますが、小木は宇出津よりはるかに小さな町で、その規模で毎回のように死人を出していたとも聞いているぐらいです。当時を規準にすれば、私など大人しい部類の目立つことない人間でした。
 40歳を過ぎても訛りのアクセントは抜けていないようで、同時に性格の方も当時の気質を受け継いでいるのかもしれません。当時から他と際立って異なっていた点は、余所者という要素も強く、全体的な社会性は強かったようで、その方向の関心もあって、知識も蓄積されたようです。
 一つには母子家庭で育ち、国家に養ってもらってきたという恩義もあるように思います。特に吉田松陰の幼少期の逸話には大きな感銘を受けるとともに、影響も大きく受けてきたと思います。ご存じの人も少なくない思いますが、幼少から藩命を背負わされ、講義の最中に顔に止まった無視を追い払ったことで、激しい打擲を受けたという話です。
 師曰く、講義の時間は公であり、その最中に虫に気をとられたのは私心である、よって制裁を加えたような話でした。極論のようですが、爪の垢を煎じて飲めという言葉もあります。このあたりも現在の市民感覚との大きなずれになっているのかもしれません。
 その当時は藩というのは国そのものであったと聞いています。吉田松陰は世界にも目を向け、アメリカへの密航を企て、投獄されたうえ、さらに数年後は死罪を申し渡され、刑場の露と消えました。
 その時の遺書ともいえる言葉を私は伍子胥と同じく、二度目の拘置所生活で知ったのですが、いたく感銘を受けました。穀物の成長に例えた人間の生涯についての言葉でした。ご関心のある方はネットでも検索を掛けることで、情報に接することが出来ると思います。
 時刻は4時49分になっています。起きてからになると思いますが、事実関係の記載を再開致します。
 吉田松陰の犠牲が大きな原動力となって、明治維新に繋がったとも聞いております。その一人高杉晋作の言葉に、「面白きことなき世を、面白く」という言葉があったかと思います。扇動する意図はありませんが、鬱屈したこの時代に風穴を開け、卑屈に妥協するか、巧妙で邪な悪事を働かなければよい暮らし向きが出来ないという時代を根こそぎ覆そうとする人間がいないものかと不思議に思うことがあります。そのあたりのストレスも本を見てもいないのでよく分かりませんが、世界一の精神病大国という現状に繋がっているのかもしれません。
 精神科医が儲けのために精神病者を量産しているような疑念も持っているのですが、まやかしのような占い師がもてはやされるのも歴史的に末世に現れる現象の一つだと聞いた憶えがあります。
 報道やメディアの話を聞いている限り、まさにこの国は破滅へと進んでいるようですが、有効な対処法を耳にすることもほとんどなく、枝葉末節に尾ヒレをつけて、飯のタネにしているような印象が拭えません。強引に過去の亡霊をも引き出す輩もいるように思えます。
 個人的には悪い人ではないようにも思えますが、そうでもしなければ生活していけない死活問題となると曲学阿世に走り、営利第一主義に迎合するのも当然の成り行きなのかもしれません。立場が変われば、私とてさほど変わりはないかもしれません。あるいは荘子にいうように浅学非才、無価値が幸いして、安全が保たれているのかもしれません。一方で国家権力の最高機関に利用されるようなはめになったのも、生来持っている何かが災いしたようにも思えます。
 そのような私個人の問題より、大きな存在、個性も強く問題の大きな人物が多数いるように思えるのですが、余りにも関心が乏しすぎるようです。
 今回ご紹介した少年時代の体験にも通底するように思えるのですが、いかがなものでしょう。その頃か少し先には戸塚ヨットスクールが大きな社会問題になり、子供を持て余し仕事に忙しい親は一日1万円以上だったかの費用を支払い、子供にスパルタ教育を受けさせ、そのうちの何人かが亡くなり、裁判沙汰にも発展したと聞いております。
 その忙しさと、家庭を顧みることの出来ない生活は当時と変わりなく、より以上に深刻で破滅的な事態に至っているのかもしれません。当たり前のように家族間での殺し合いや大事件が報道されている昨今でもあります。マスコミが何か有効な対策を教示してくれた試しなどあったでしょうか?
 どちらかといえば、不安を煽り焚きつけて、関心を惹きつけることに執心しているという印象が払拭できません。
 結局のところ、私のような制御不能の人間は、相手にしないという方針なのでしょうか。私の方が世間知らずの子供のようにも思えるのですが、時代環境が悪ければ、根こそぎ吹き飛ばしてでも建て直すという気概の取り組み姿勢も時には必要でしょう。暴力的な方法ではありません。
 「嵐を巻き起こすのはもっとも静かな言葉である。鳩の足運ぶ思想が世界を変える(ニーチェ)」
という言葉もありますが、私の沈黙もほとんど意味はなさなかったようです。幸いなるかな司法だけが私の唯一の理解者であるのかもしれません。この現状は問答無用で大きな現実的行使力として市民社会を直撃するかもしれません。
 歴史は繰り返すともいいますが、大正デモクラシーを経て、226事件に至った戦前の状況にも酷似し、破滅的な大混乱にも繋がりうるのかもしれません。
 私が検察に親近感を抱くのも、政治力の司法権への介入、法務大臣の指揮権の発動を受けた夜、東京地検に流れたという次の歌が大きく影響していると思います。


昭和維新の歌青年日本の歌
作詞 三上 卓


泪羅の淵の波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ 
混濁の世に我れ立てば 義憤に燃えて血潮湧く


権門上に傲れども 国を憂うる誠なし 
財閥富を誇れども 社稷を思う心なし


ああ人栄え国亡ぶ 盲たる民世に躍る 
治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり


昭和維新の春の空 正義に結ぶ丈夫が 
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花


古びし死骸乗り越えて 雲漂揺の身は一つ 
国を憂いて立つからは 丈夫の歌なからめや


天の怒りか地の声か そもただならぬ響きあり 
民永劫の眠りより 醒めよ日本の朝ぼらけ


見よ九天の雲は垂れ 四海の水は雄叫びて 
革新の機到りぬと 吹くや日本の夕嵐


あゝうらぶれし天地の 迷いの道を人はゆく 
栄華を誇る塵の世に 誰が高楼の眺めぞや


功名何ぞ夢の跡 消えざるものはただ誠 
人生意気に感じては 成否を誰かあげつらう


やめよ離騒の一悲曲 悲歌慷慨の日は去りぬ 
われらが剣今こそは 廓清の血に躍るかな
事件当日私は安藤文に対して、「世の中狂っとるな。気分の悪いときはこの歌や」といいカセットからこの歌を流しました。ちょうど南浦漁協の前の道路を左折したあたりでした。後悔先に立たずでありますが、それが当時27歳であった私の心理状態であり、心の中の風景でありました。それが作られた幻想であったことに気づいたのはずっとあとのことでした。
 同じような悲劇が繰り返されるという懸念もあり、それははるかに大きな大事件に発展しそうです。マスコミメディアは、阪神大震災の惨劇を奇貨とし、喜んだ受刑者同様にこれは出世のチャンスであり、大収穫だと喜び勇むのかもしれません。
 そのメディアに対するチェックを怠っているのも、このブログに対するアクセス数の少なさが物語っている状況にも思えます。

書き忘れていましたが、大森朋彦は金沢市場輸送で、福井県内で4トン車を崖下に転落させ、竹沢俊寿に懸賞金をかけられ、また、大網周一と大網健二の兄弟がもっとも残酷な輪姦をした被害の際、大網周一の同調参加の呼びかけを一蹴した人物です。