hatena-diary_20060820

[告訴事件]組織犯罪と法的救済について(6)

 このところ夜寝苦しい日が続いています。今日は9時25分頃に起きました。このような日々の生活状況も交え、盛り込むようにしておりますが、それは予定している情報の更新記載の進捗にも少なからず影響があるからです。
 午前中は涼しい風が窓から入ってくることもあるのですが、昨日も最高気温は36度ほどあったらしいです。それでもクーラーは使わず、時々扇風機を使う程度ですが、思考力の低下や集中力の減退にも繋がっています。
 昨日は積極的にトラックバックを入れ、コメントもいれて宣伝活動のようなことを行いましたが、アクセス訪問者数は増えていないようです。「はてな」のログがどこまで信用できるのか、いささか懐疑的な見方も持っておりますが、誤魔化す必要なども考えにくいので、ログの記録を前提に反応や現状を分析しております。
 膨大な資料を作成しているのでそれだけで変人と疎んじられているのかもしれませんが、私としても好きこのんでこんな面倒なことをやっているわけではありません。事実上強いられてきたと言え、その辺りの理由や必要性についても、前もって説明を加えているところです。
 このエントリテーマにもあるように、組織的な侵害に対して個人が立ち向かうのは、これほど困難で、生活を圧迫する作業量を強いられる現状をもお伝えしているつもりでいます。
 もっともこれはいわば表向きの活動であって、背後では専門の捜査機関が、より膨大で大掛かりな活動を行っている可能性があり、14年以上の歳月を経て、ようやく結実した本格捜査、法的手続きに移行する段階にさしかかっている可能性も高く、監視社会や権力の市民生活への不当な介入などと世論の批判の的にもされがちな部分との、分離、整理も行っているつもりでいます。

 一応「組織犯罪」という言葉を使っていますが、普通に生活していて得ることが出来る言葉のイメージとはかなり異なったものであり、ニュアンスもあるかと思います。さらに私自身、その実態について性格に把握が出来ているわけでもありません。自分が知る、経験した範囲を記録し、ご紹介することで理解を求める外はありません。
 情報量も多く一度にまとめて公開というわけにもいきませんが、告知しておくことでリアクションも期待してきたのですが、今のところそれらしい反応というものはないようです。必要を感じ、能動的に調べるならば、サーバの方にも情報は多く、適切な判断には十分な資料を得ることが出来るはずです。
 あくまで無視し続けるというのも、一つの判断であり、有効な対処なのかもしれませんが、予想以上の不利益を招くことにもなりかねず、それだけやましさに身に覚えがあるとも判断されかねず、いずれは法的な判断、世間の判断の一資料にはなるかと思われます。
 そういえば先日ご紹介した2チャンネルでのレス(コメントに対する返信コメント、おそらくレスポンスつまり反応のこと)ですが、肝心の部分が抜けていました。「人間関係に失敗した香具師の被害妄想」などと書いてあったはずで、この前のご紹介では「人間関係に失敗した」の部分が抜けていたはずです。
 これはものすごく的確なご指摘でもあります。実質的に見ても本来は「組織」というより「人間関係」の問題だからです。失敗したとありますが、失敗することで不当な不利益を受け、失敗を回避することで犯罪的侵害行為に加担し、責任を問われるという側面がある極めて身近な問題でもあるわけです。
 私は情報発信を始めた直後から、「被害者にも加害者にもなりうる問題」とご紹介してきたはずです。このようにタイトルには、奥の深いニュアンスも込められているのですが、これは後半の「法的救済」という部分にも当て嵌まります。
 法的救済と書いてありますが、本来裁判所や司法に求められているのは、「謙抑性」というものです。「民事不介入の原則」という言葉は有名でご存じの人も少なくないと思われます。検察の持つ権力は「強大」とも表現されているように、市民生活に大きな悪影響をも伴いがちなものです。「必要悪」という表現をされる場合すらあります。
 謙抑性というのは聞き慣れない言葉かと思いますが、強い力を持つものが自らを抑えへりくだる、というような意味があり、同時に「廉潔性」という要素も含まれているような言葉です。
 余りにも常識の程度を超え理不尽な侵害を蒙ると、主客が転倒して被害を訴える方が不利になるという現状も想像以上に大きいというのが、これまでの実感であり、関心の低さにも繋がっているようです。被害妄想とか頭がおかしいという判断は、もっとも安直な答えなのかもしれません。
 いずれにせよ、その辺りの問題の判断の基準、線引きというのは難しいところで、解決に向かう指針すら与えられていないと言えるのではないでしょうか。私はその方面の専門家にも伝わるように情報を送ってきたはずですが、アクセスは少ないままです。
 もっともログに残らないようなかたちで、情報を広めるという方法もあり、私は早い段階からそれも推奨してきました。たとえば代理サーバのような形態もありますが、当初の目的は個人サーバの負担軽減が必要にも迫られていたからです。
 「はてな」のブログではそのようなサーバ過負荷の事情は問題ないはずですが、それでもアクセスは伸びないままでいます。
 私のような素人の目から見ても、社会的問題性、社会的意義は大きく、多岐に渡ると思うのですが、いちいち書くと切りもありません。
 とりあえず、今回は継続中の連載エントリ「組織犯罪と法的救済」の趣旨について説明をしました。法的救済及び介入の妥当性、必要性のメルクマールにもなりうるかと思います。


メルクマール
〔ド Merkmal〕〔抽象的・観念的な物事について〕そのものの特徴をつかんだり他の類似のものと区別したりする上で手がかりとなる基準。目印。徴表。

Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997

 落合弁護士のブログの有用情報で知ったことですが、次のような法律の変化も兆しを見せているようです。


現在は、被害者保護法制度が整備されて、刑事事件で裁判所に出た記録は、一定の手続を経た上で被害者が閲覧、謄写できるようになりましたから、そういった資料を使って民事訴訟を起こすこともできます。

上記のような付帯私訴制度ができれば、前進とは言えますが、犯罪被害者にとって最も問題なのは、損害賠償を命じる判決が確定しても、それを執行して回収するだけの資力が、犯人側にないことが非常に多い、ということでしょう。

個人的には、犯罪被害者に対し、国が迅速に、給付金の支給や生活補償等を行い、その回収は国が犯人から行う、という制度を整備したほうが、実質的な意味での被害者保護になる、と思います。ただ、そういった方法は、財政面等で困難なのでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060814#1155486298

 時刻は11時20分になりました。休憩を挟み引き続き具体的な内容事実に関して記載を行う予定でいますが、以上の趣旨を踏まえ、トラックバックにてご案内させて頂きたいと思います。ご理解のほどよろしくお願いします。

[告訴事件]組織犯罪と法的救済について(7)

 時刻は13時27分になりました。高校野球の決勝戦を見たいとも考えましたが、ブログの更新が予定より大幅に遅れていることもあり、テレビを消して、さらに珍しくクーラーもつけて準備を整えて取り掛かるところです。
 今日の予定は、他に「なます」を作ることがあります。一昨日安めに売っていた大根とニンジンを買ってあり、作る必要があるのですが、これだけで2時間近く時間がかかるかもしれず、痛いところです。

 平成10年当時の状況について記述を再開します。
 あれからでももう8年ほど経過したことになりそうです。特別時間の経つのが早いとは感じてはおりませんが、断片的に鮮明に覚えている部分と、前後のつながりが曖昧になっている部分があります。
 加田設備工業でメインの仕事になったのは、いしかわ動物園の工事と辰口町新庁舎の工事でした。
 前者は、アザラシだったかの小さな水族館の棟の配管工事で、技術的にも高度で複雑な工事でした。配管工事のミスでアザラシが死ねば、日露友好の国際問題にもなりかねないと加田義満は話していました。半分は冗談のようでしたが、ロシアからアザラシが友好交流として送られてくるという話は本当だった感じです。
 この動物園も当時の能美郡辰口町にありました。確かこのようにひらがなで「いしかわ動物園」と書いたように思います。
 今ネットで検索を掛けて見たのですが、次のような情報が見つかりました。
http://www.pref.ishikawa.jp/zoo/map/index.html
 動物園内のマップのようですが、このなかの「アシカ・アザラシたちのうみ」が該当するようです。今見ると正門ゲートの前になっていますが、思い出すとその正門ゲートの配管工事もやっていました。
 初めにその現場を訪れた頃は、まだ雪が残っていたような憶えがあります。それから2,3ヶ月ぐらいして建物がある程度出来上がってから、本格的な配管工事に通うようになりました。
 断片的にしか思い出せないのですが、防寒服を着て寒い思いをしながら仕事をした記憶が残っています。逆に炎天下のなか汗を流しながら作業をした記憶ははっきり残っていないのですが、本当は夏場から秋にに掛けての本格工事であったと思います。
 一方の辰口庁舎の現場も、だいたい同じ頃から始まっていたはずです。こちらは炎天下のなか、スラブという鉄板の上で、熱い思いをしながら鉄筋の間にスリーブを入れていた記憶など残っています。
 私が12月一杯でやめる頃には、どちらも建物の基礎自体は完成に近づいていたはずです。
 配管の工事は、大きく分けて衛生、防災などと区別するようです。加田設備工業の仕事は大半が衛生工事で、水道、便所、排水等の工事のことです。防災の方は、建築基準法などで義務づけられたスプリンクラーの設置工事で、一定の大きさの建物には必須になるものです。
 簡単にご紹介しますが、配管はビニール系のもの、鉄系のもの、鉄系のものは水道水の供給に使われるライニング管と他の鉄系のパイプに区分されます。
 ビニール系はほとんどが糊づけになります。鉄系のものはねじ込み式と、溶接に分かれる工事方法になります。ライニング管はすべてねじ込み式で、鉄系はねじ込みの場合と溶接する場合がありました。
 配管を繋げる部品は継手と呼ばれていましたが、これも色々と種類があり、ねじ込み式では、ボルトやナットを使うものが多く、途中に弁のような部品を挟むことが多く、特に動物園の工事に多くありました。
 最終的には便器の取り付けなども行っていましたが、これが最終段階の工事でした。配管というのは地下に埋まっている部分から、コンクリートのカベヤ天井のなかを複雑に通るものです。付随した作業も沢山ありました。
 配管工事に漏れはつきもので、一定の段階でテストをして、漏れが出た場合漏れている箇所を探し出し、修理することになります。溶接の場合だと溶接し直すことで割と簡単に直せるのですが、ねじ込み式となるとこれが大掛かりな作業になりました。
 このあたりも細かく書くときりがなく、説明も容易ではないのですが、2005年11月2日付告発状に記載してあるように、計画的故意とも思えるほど松本隆明の仕事はいい加減で、漏れも多く、手直しにも時間がかかっていたのです。
 私を飲み屋に連れ回していた行動とも似ていたのですが、松本隆明の仕事のいい加減さは理解の程度を超えていて、それを全く注意をしない加田義満の態度も尋常とは思えないものでした。
 松本隆明はその動物園の工事の仕事を任された職長という立場で、同じく辰口庁舎の職長が亀祐二君でした。その時々の指示で、私はどちらの現場にも出向き、彼らの指示に従って作業をしていたことになります。
 先にも触れたように水族館の仕事は、かなり技術的にも高度で難しい面があったのですが、やり直しや補修が多々ありました。漏れの検査中、太めのビニール系のパイプが外れて、消防の放水の圧力以上の水が噴き出したこともありました。
 私はその頃、宅地建物取引主任者の勉強をしていた関係で、消防法で定められた放水圧力の規準も知っていたのです。今は覚えておりませんが、スプリンクラーの工事の鉄パイプの検査になると17キロという圧力を掛けて検査をしていました。これは破裂などを含め、かなり危険を伴う作業でもあるのです。
 ビニール系の場合はそこまで高い圧力は掛けなかったように思いますが、実際にパイプが外れたときも、私はその箇所に近づいていたところで、漏れを確認するにはパイプに接近して作業することもあり、緊張感もありますが、松本隆明の仕事がずいぶんといい加減だったので、その危険性や緊張感も大幅に大きくなっていました。
 トラック運転手の仕事をしていた頃も、性格的に事故などを繰り返すタイプがいましたが、松本隆明の責任感はより希薄で、あからさまにわざとやっているとしか考えられないところもあったからです。
 これも加田義満からの一種の圧力として、解釈することもありました。
 亀君が担当していた辰口庁舎の漏れの検査は、簡単に済み問題は出ませんでした。私自身、他の配管屋で仕事をした経験がないので、比較も難しいのですが、それが本来当たり前のように思われます。
 当たり前に考えて、松本隆明のような男に仕事を任せていれば、大問題の大損害を蒙る可能性も高く、気が気でならないというのが親方である加田義満の立場であったはずですが、彼は飲み屋での散財同様、全く気に掛ける様子もなく、平然とし、納得ずくというふうでした。
 つまり他に大きな目的があり、目的のための手段として仕事を利用しているふしが窺えたわけです。
 私自身、自分の考えすぎであることも絶えず疑っていましたし、疑えばきりがなく、疑心暗鬼に陥ることも自覚していました。
 たとえば、電気溶接(アーク溶接)もよくある作業の一つで、現場では雨の降るなかでの溶接や、水たまりのなかに溶接棒を突っ込んで作業することも珍しくはありませんでした。これはけっこう危険な作業でもあったと思えます。
 スラブというのは鉄筋コンクリート建ての建物の、床であり天井でもある部分のことで、スラブという鉄板の上に鉄筋を組み、水ようかんでも作るような感じで、コンクリートを流し込み固めるものです。
 上下階の配管を通すのに、予めスリーブという筒を仕込んでおいて、穴を開けておくのですが、スラブの鉄板の部分はそのままふさがっているので、この鉄板の部分を切り抜くのに、アーク溶接を使い焼き切っていたのです。
 溶接というのは本来鉄と鉄を繋がるものですが、このように溶かして切り離すような使い方も現場ではありました。本当はガスの力で焼き切るのがより安全なのかもしれません。このスリーブの穴には水がたまっていることも多く、かなり乱暴な方法で作業をしていたことになります。
 その頃私自身アーク溶接の講習を受けたのですが、講師の説明によると昔の溶接作業はずいぶん危険なもので死亡者も多かったそうです。間違いが起こった場合、怪我で済むようなことはなく、即死だと言っていました。
 そのような事故が少なくなったのも、溶接の機械自体に安全弁のような装置が取り付けられ、瞬時に電流を下げるようになっているからだというような説明もありました。知識があれば、機械に細工をすることで、死亡事故を起こすことも容易かもしれないと私は考えました。
 これまでにも書いてきたことですが、加田義満の私に対する態度は、福井刑務所を出た直後から不審な点があり、迂闊に刺激しすぎると、正直殺されるかもしれないという不安がつきまとっていました。人に相談することも出来ず、それこそ被害妄想と思われるのが関の山であることも承知していましたが、死人に口なしであることも絶えず意識し、注意の怠れない緊張の連続でもありました。
 私はその辺りのことも頭にあり、より大きな視点で判断が可能な金沢地方裁判所に、日々の状況を詳細に書き送ることで、手遅れにならない適切な対応を期待していたのです。
 いずれにせよ、私と大網兄弟、加田義満との間には、腹のさぐり合いのような水面下の駆け引きも絶えず行われていたように思います。私の方は、防戦一方という立場でもありました。現実を見極めると言うよりは、深く考えずに精神の安定を保つ、平静を装うことに努めていました。
 平静を装うという言い方もなんですか、つたない表現ですが、逆に言えば、動揺して真意や弱点をさらけ出すという見方も出来そうです。私の方が役者が上だったのかどうかはわかりませんが、そのような動揺を見せるようになったのも彼らの方でした。
 同時に私は慎重すぎたという嫌いもあり、踏み込んで彼らの意図や目的を掴むことも出来ませんでした。自分自身がそれを掴んだところで、どうにもならないという思いもありました。判断の材料を渡すことで、適切な対応をして頂く、こちら方がより収穫も大きく、マイナスも少なく済むはずだと私は当時から考えていたことになります。
 実際のテレビドラマなどではこの逆のパターンの筋書き多いようで、平凡な主婦などが捜査官顔負けの活躍で、真相に迫るという展開が一般的かと思われます。

 時刻は15時12分になりました。ログを見るところアクセスの方も宣伝の効果が現れだしたのか増えつつあるようです。こまめに読んで頂いた方が、負担も少ないという配慮もありますので、いったんこれにて登録致します。引き続き、続きを書いて行きますので、こまめにチェックして頂ければ幸いに存じます。

[告訴事件]組織犯罪と法的救済について(8)

 いしかわ動物園の工事も、辰口庁舎の工事もいずれも、現場での請負先はアムズという会社でした。
動物園の方では独立した現場事務所があり、2階だけの小さな仮設の建物でしたが、一階は私たちの休憩所兼資材置き場で、二階の方に事務所がありパソコンなどの機器も備え付けられていました。
http://www.e-ams.co.jp/
というホームページも公開されているようですが、金沢の西泉に本社があるらしく、地元企業のようです。当時はもう少し大きな規模の会社であることを想像していましたが、実際は割と小さな会社だったようです。
 動物園の現場事務所には常時二人の監督がいました。一人はキタガタという名前で、漢字では「北形」と書いたような気もします。もう一人大学を出たばかりの若い監督がいたのですが、名前の方は思い出せなくなっています。確か金沢の田上に家があり、通勤しているような話だったと思います。
 田上というのは金沢刑務所のある場所でもありますが、割と新しい住宅地でもあります。
 キタガタという人も年齢的には私や加田義満とほぼ同じぐらいでした。愛想もよく、物分かりもよい感じの監督でしたが、加田義満は彼のことを「デコッパチ」と呼び、何か私利私腹を肥やし、下請け業者を食い物にする悪代官のように評することもありました。
 表立ったトラブルなど現場では見ておらず、詳しいことも分からないのですが、加田義満は次のように言うこともありました。
 「我慢して、それでも我慢して、最後の最後は、デコッパチャ田んぼに沈めてやる!」
 これも加田義満らしい言い回しの一つでしたが、それほど深刻な問題を抱える関係には見えませんでした。その監督はずいぶんおおらかな面もあり、松本隆明のことを批判するようなこともなければ、心配している様子も感じられませんでした。裏でずいぶんあくどいことをやっているような加田義満の言い分もありましたが憶測か冗談で、余り現実的とも思えませんでした。
 はっきり覚えているのは、平成10年の8月の初め頃、北方さんらを接待して、香林坊109の屋上にあるビアガーデンで飲み、それから片町のスクランブル交差点を笠舞方面に曲がり、50メートルほど歩いた左側にある飲み屋が集まったビルのなかにあるランジェリーパブに行ったことです。
 当日もそうであったかはっきりしませんが、当時は、金劇と呼ばれるビルのなかにある「サトウ」という飲み屋にもよく行っており、一応加田義満はそこの常連でもあったようです。
 少し耳にした話では、そのランジェリーパブはサトウのママだったかの知り合いで、紹介された店だということでした。
 その日はちょうど犀川祭りの開催日で、花火が打ち上げられていたことも覚えています。その頃、私と安藤さんの間で、直接会って話すというやりとりも進んでいた頃で、加田義満はそのことに関してこの時は、協力的な姿勢を示し、同席しても良いと言うことをほのめかした上で、当日、サティ御経塚店での服選びにも付き合ってくれたのです。
 安藤さんに会うときの服を買うのが目的で、いい服を着た方がよいと加田義満が勧めてくれたのです。結局服も買わなかったように思いますし、安藤さんと会うことも実現はしませんでした。しばらくすると加田義満の態度も一変して、安藤さんのことを話題にするのも許さないような強烈な反対を示すようになりました。
 今考えても大きな態度の変化だったのですが、心境や態度の変化について、きっかけらしき出来事は私自身に思い当たるようなことがありませんでした。
 その年の9月頃になると「わかさ美術印刷」というような小さな工場の配管工事によく行くようになっていました。松任市の旭工業団地の入り口付近にある工場で、安藤健次郎さんの勤める西鐵工所にも比較的近い場所になりました。
 そして9月の20日ぐらいに、亀君と二人で名古屋市内に2級管工事施工管理者の試験を受けに行きました。同じ頃にその年の5月か6月ぐらいからパソコンで作成していた安藤さんへの手紙を郵送したことも覚えています。
 この手紙はメールで公開してありますが、証拠番号5より長い文章になっています。そのうちこのブログでもご紹介する予定でいますが、5分割ぐらいしないとエントリとして登録できそうにはありません。
 もう少し経った頃だったと思いますが、加田義満の家の近くに小さな個人経営の居酒屋がオープンしました。虎という字の入った店の名前だったように思います。店が出来てから何度かその店に飲みに行くことがあったのですが、ある日、その店で飲んでいるときに、私が安藤健次郎さんのことを口に出すと、加田義満はいきなり怒り出し、まだそんなことを考えているのかとクレームをつけて話を打ち切り、忘れろと言っていたことがありました。
 それからもうしばらくして、間明の新しくできた韓国風の焼肉屋レストランで食事をしたことがあったのですが、その場では、「たった一つのチャンぺを忘れられんとは」と嘆かわしい口調で、私を詰ったこともありました。その場にいたのは、加田義満が「アンサマ」と呼ぶ人でした。
 こちらも名前の方は現在思い出せなくなっています。新本設備の社長に次ぐ、統括現場責任者のような立場の人でした。もともとは宇出津の隣の柳田村の人で、私や加田義満より5歳から10歳位は年上で、加田義満が高校を卒業して宇出津の配管屋で仕事をしていたときの先輩でもあり、同業者として長い付き合いがあり、一時は加田義満の会社の従業員としても働いていたことがあると聞いていました。
 動物園と庁舎のアムズの仕事は、いずれもこの新本設備が下請けで、加田義満はさらにその下請けとして仕事をしていたようですが、新本設備の介入は少なく、たまに応援がくる程度で、加田義満が直接北方さんと打ち合わせをして、普通の工事よりかなり高額な材料や取り付け器具の調達も加田義満が負担しているような話でした。
 その新本設備で溶接の練習をさせられていたこと、思い通りに制御できない私にいらだった加田義満が、いったん解雇の上、私を新本設備で働かせることを目論んでいた公算が高いことについては、2005年11月2日付告発状でも説明してあるかと思います。
 アンサマの名前については、思い出せませんが、金沢市内入江のアパートに住み、近くに「アンカーイン」という飲み屋があり、初めの頃はよくその店に飲みに行っていたのですが、加田義満や新本設備の社長が、店のなかでビールをまき散らすような行動を起こすようになり、まもなく出入り禁止になったと聞き、その後しばらくして、店の方もつぶれ、ママは富山に帰ったなどとも聞いた憶えがあります。
 ついでに書くと、松本隆明が前にいた会社はTY工業という会社で、私や加田義満とも年の近い、ヤクザ者にも見える社長の個人会社だったようです。20代前半ぐらいの若い従業員が三人にて、松本隆明もその一人だったのですが、松本隆明以外の二人はすぐに新本設備から声が掛かり、そちらに移っていました。
 一人はコウイチ君という名前で、もう一人も顔はよく覚えていて、いずれもよく一緒に仕事をする機会もあったのですが、名前の方は思い出せなくなっています。
 新本設備は10人程度の規模で、確か株式会社であったように思います。ほとんどがそのような20代前半の若者で、例外的に50歳か60歳位を越えたような年配者も二人ほどいました。
 社長は穴水町出身だと聞いていますが、沖波であったか、穴水でも能都町に近い、それも海岸線に近いあたりでした。
 加田義満の同業者仲間には、ほかに若宮町の「パソコンの館」という店の裏側あたりにある「サクライ設備」があり、こちらも社長を含め3,4人の従業員という小さな会社でした。
 社長の桜井さんは、能都町姫の出身で、元漁師であったとも聞いていました。そこに加田義満が「山賊」とも呼ぶ、ベテランの配管工の人もいたのですが、この人も沖波あたりの出身であったと聞いています。右翼やヤクザの世界にも以前付き合いがあり、少し詳しいようなことを話していたことがありましたが、実際のところはわかりません。
 はっきりしていることは「アンサマ」同様、酒好きで加田義満の家にも頻繁に顔を出して酒を飲んでいたことです。アンサマほど頻度は高くなかったと思いますが。
 他にも「菊谷設備」という西インターに近いところにプレハブの事務所を構えた小さな会社があり、そこも協力関係にある同業者で、親方と授業員一人という二人だけの会社でしたが、その授業員の私より年下の若者は、珠洲市蛸島町の出身だと話していました。
 この新本設備、サクライ設備、菊谷設備の間で、仕事の付き合いがあり、下請けをしたのは比較的規模も大きい新本設備だけだったと思いますが、応援というかたちで、仕事の手伝いをしあう関係にありました。
 このような細々とした仕事も多く、北陸先端大学の仕事も菊谷設備の応援でした。
 新本設備の応援では、富山市内の富山駅前の新築マンションの配管工事もありました。
 もう一つ西インターの近くの上荒屋町あたりにある小さな老舗のような設備会社も元請けであり、金沢駅前にある都ホテルの配管工事などやったことがあるのですが、会社が倒産し、手形が不渡りになったとも加田義満は話していました。会社の名前の方は思い出せなくなっています。本当は調べれば分かることでもあるのですが、調べておりません。
 以前加田義満にパソコンでの年賀状の作成を頼まれ、その時に作成した住所録のようなファイルが残っているはずだからです。
 先に触れた「わかさ美術印刷」は「若狭屋美術印刷」という会社名であったかもしれません。ネットで調べてみましたが、はっきりした情報はつかめませんでした。そこでの工事も毎日あるようなものではなかったのですが、割と長めの期間に及んでいたのかもしれません。
 その終わり頃になると、日曜日の出勤も多くなり、予定していた裁判資料の作成にも影響が出て、出ることを渋ると、松本隆明に皮肉を言われたり、加田義満も不満を露わにしていました。休みというのは日曜日だけでした。
 実際にそれほど仕事が忙しいとも思えない状況であったのですが、これが伏線のようなかたちにもなっていた感じです。
 平成10年の秋頃のことですが、この頃になると生活に大きな変化がもう一つ現れていました。

[司法全般]刑事裁判、刑務所事情の現状と移り変わりについて

 時刻は21時18分になっています。夕方から記述の中断をしていました。今はテレビで「行列のできる相談所」を観ながら書いています。相変わらず蒸し暑くなかなか集中することも出来ません。予定していた今回の土日の休みも、エントリの更新はあまり捗りませんでした。やはり秋になって涼しくならないと頭もすっきりしないのかもしれません。
 同時に、昔のことを思い出し感傷的になって落ち込んでしまうかもしれません。その季節毎に体感的に蘇る記憶がありますが、この季節というのは安藤文さんとの個人的な関係が始まった時期でもありました。
 加田義満にもよくストーカーなどといわれ、他にも被害妄想者扱いされてきましたが、彼女に対することはすべて留保した状態を続けています。まず過去に決着をつけることが先決であり、今はそれに専念したいと考えています。

 夕方、落合弁護士のブログの方で新規エントリを読みました。刑罰の量刑相場に変動に関する記事の紹介でした。
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060820#1156045873
http://chubu.yomiuri.co.jp/news_top/060818_1.htm
 一審判決に不服があり、控訴するケースが増えているそうですが、未決勾留の扱いはどうなっているのでしょう。はっきり言って、控訴しても判決が変わる可能性は低く、控訴期間中の未決勾留は、控訴審判決の裁判官が、どれだけの日数を刑に算入させるかを自由に決めることが出来たはずです。
 私の場合でも、2ヶ月以上の期間を無駄に過ごしたように思います。きちんと計算はしていないのですが、刑期に含まれない拘置所生活がそれだけあったということです。
 裁判の手続きとしては、軽視されがちな問題のような印象もありますが、受刑時の仮釈放の期間にも影響が及ぶので、被告人本人には直接身に降りかかる問題なのです。
 このあたりも弁護人からの説明もなく、マスコミ等でも解説された例をほとんど見たことがありません。法定通算というものあるはずですが、知らない人がほとんどでしょう。
 控訴審では割と多めに未決通算を認めてもらったようですが、上告審では極端に少なくなっていた憶えがあります。
 控訴の申し立ては、拘置所の職員に申し出るものでしたが、だいたい半年は掛かると言われました。実際は一年ちょっとだったと思います。
 より重要なことは、一審が事実審であり、控訴審は原則法律審であるという違いなのですが、これもマスコミを含め、書籍等でも説明した例をみたことがほとんどありません。例外を除けば、控訴審中に被害者に被害弁済をしたなどという有利な事情でもない限り、量刑不当の主張が認められる例も稀かと思います。
 一方で、最高裁でも若い女性の被告人であったと思いますが、事実誤認の量刑不当を認め破棄自判した例もあったかと思います。

という本で読んだような気もします。はっきり覚えていないのですが、この本は「殺人百科」という本とほぼ同時に購入し、福井刑務所で読んだものです。 これも同じく文庫本で3冊あったかと思います。今も実家にはあるはずですが、福井刑務所を出てから見た憶えはありません。
 いずれも佐木隆三という刑事裁判に詳しいノンフィクションライターの作品でした。他にも同じ頃文庫本で、「勝ちを制するに至れり」や「新撰組事件帳」などという同じ作家の本を購入して読んだ憶えがあります。
 確か「事件百景」だったと思うのですが、今でも忘れることのない社会的事件が取り上げられており、舞台は福井県でした。最高裁減刑された例は、よく考えると「殺人百科」の方であったかもしれません。保険金絡みの計画犯罪も多数紹介されていた憶えがあります。
 先程、佐木隆三氏についてネットで検索を掛けてみたのですが、情報は古いものばかりでした。現在はご活躍されていないのかもしれません。
 それとこれも最近になって頭に浮かんでいたことですが、近頃では「ノンフィクション」という実際の事件を取り上げた作品というのもほとんど聞くことがなくなりました。福井刑務所か金沢刑務所かはっきり忘れましたが、官本という刑務所の施設備え付けの本に「女帝」という本があり、読んだのですが、これは名誉毀損で裁判沙汰にもなっていたはずです。
 ネットの普及で情報量も激増し、ノンフィクションなどと迂闊に小説化は出来なくなってしまったのかもしれません。それとも関心の低下とともに需要自体が激減し、商売として成り立たなくなってしまったのかもしれません。
 私自身の趣味や、生活スタイルが以前とはかなり異なり、週刊誌なども全く読まなくなってしまったので、あるいは私個人の変化に起因しているだけなのかもしれないのですが。一頃は「何とか殺人事件」という小説が、本の売れ筋ランキングでもベスト10のトップに並んでいたようですが、現在はどうなっているのでしょう。
 意外に思われるかもしれませんが、平成5年頃は文庫本の西村寿行の作品を読みあさっていました。きっかけとなったのは、たまたま精神鑑定中の金沢大学付属病院で読んだ「闇の法廷」という本に出会ったことでした。
 西村寿行の作品は性描写も多く、テレビか週刊誌で刑務所では西村寿行の作品でさえ、検閲に引っ掛かって読むことが出来ないと紹介されていましたが、それ以前に、福井刑務所では官本にも西村寿行の作品は含まれていて、借りて読んでみると倒錯した獣姦について描写されていました。
 同じ頃、法律の勉強をしていると「チャタレー夫人の恋人」の裁判が憲法上の表現の自由の保障などにも関連する問題として大きく取り上げられていましたが、実際の福井刑務所では、刑務官が休憩後の点呼のとき工場受刑者全員の前で、「ヘアーヌード」は解禁のようなことを明言していましたし、かなり露骨な本も競い合うように注文されていました。その方面には詳しくなかったのですが、同じヘアーヌードのような写真集の本でも、許可されるものとされないものがあったようです。
 金沢刑務所でも「裏ものジャパン」や「ラジオライフ」という犯罪の手口を紹介した月刊誌の本も普通に購入することが出来ていました。受刑者の間で聞いていたので、私も試しに申し込みをして読んだことがありました。
 そんな本を読んでいても全く普通に仮釈放がもらえていましたし、問題にされることも全くありませんでした。
 金沢刑務所での午前の休憩は、9時40分ぐらいで、全員が二階の食堂に集まっていました。以前は福井刑務所同様、工場内で自由に休憩時間を過ごせたそうですが、数年前に地元と県外の暴力団組員同士の対立があり、それ以降工場二階にある食堂に集まり時間を過ごすようになったそうです。
 ここにも大きな特徴があったのですが、金沢刑務所では刑の確定順に序列のようなものが決められ、奥のテーブルから順番に座る場所が決められていたのです。一つのテーブルには6人が座っていて、そのテーブルが10あったはずです。
 仮釈放や満期釈放で人がいなくなるにつれ、前の方に移動していたのですが、私はわずか1年1ヶ月ほどしかその工場にいなかったのに、終わりの頃は前から2番目のテーブルに座っていました。それだけ短期の刑が多く、回転率が高かったということでしょう。
 食堂にはいるとテレビを観たり、官本を選んだり、新聞を読んだり、雑談をするのが普通の生活でした。原則他のテーブルの受刑者とは交談が禁止で立ち歩きも禁止でしたが、職員もうるさくは言わなかったようです。
 午前の休憩の場合、テレビはほとんどかあるいはすべてが「特ダネ」という報道番組でした。テレビがついてしばらくすると血液型選手権をやっていましたが、その前かあとに、番組のスタッフが短い時間に時事を取り上げることがあり、ある時現在の刑務所事情について話をしていましたが、現状とはかけ離れた古い情報でした。
 これがマスコミの提供する情報と、現状の違いかとその落差に驚いた瞬間でした。他の受刑者もいい加減な話をしていると呆れたように笑っていました。
 パソコンに例えるならば、今はWindowsXPが主流ですが、その時代にWindows95以前のパソコン事情を話していたようなものです。刑務所事情の現実を知らない人が大多数なので、そのような報道も出来たのでしょう。何か本で得た知識のようにも思えましたが、元ネタはずいぶん陳腐化されたものであったのかもしれません。
 ついでに官本についても説明をしておきますが、福井刑務所と金沢刑務所ではずいぶんシステムに違いがありました。福井刑務所では小さな図書館があり、入浴の前後などに図書館に行き、自分で選んで本を借りるシステムでした。借りれるのは一度に2冊であったか3冊であったかはっきり思い出せなくなっています。借りることが出来る日も週に一度か、あるいは2回だったと思いますが、はっきりとは思い出せなくなっています。
 金沢刑務所では工場の食堂に移動式の本棚が備え付けられ、毎日自由に本を選んで借りることが出来たのですが、本棚の交換自体は2ヶ月に一度か、あるいは3ヶ月に1度でした。拘置所というか未決のときも本棚から選ぶもので、2回目の拘置所生活では借りる回数が週1回から2回に増えていたかもしれません。あるいは一度に借りれる本の数が増えていたはずですが、2冊か3冊であったと思います。いずれも連休期間中などは借りれる本の数が増えていました。
 ずいぶんいろんな本を沢山読んだ憶えがあります。私の一番のお気に入りは、中国の歴史物の本でした。未決では本の中味を見て選ぶことが出来ませんでしたが、受刑者では借りる前に本を開いて中味を見て選ぶことが出来ました。
 金沢刑務所でも西村寿行の本はあったと思いますが、福井刑務所もそうであったようにずいぶん古びた状態になった本でした。おそらくは出所した受刑者や未決の収容者が廃棄処分したものをそのまま官本に入れていたのかもしれません。
 金沢刑務所で人気があったのは、「実話ドキュメント」とか「実話時代ブル」などという暴力団ヤクザ関係の情報誌でした。配布前の本が山積みさえているのを見たことがあるのですが、ずいぶんな量になっていました。よほど購読者が多かったようです。
 クラブ活動に利用された部屋でたまたま目にした光景でしたが、ちなみに私は福井刑務所のとき、簿記と算数クラブに所属し、金沢刑務所では詩吟クラブでした。いずれも月に1回程度の受講で、休日に相当する免業日に行われていました。
 これが私自身が体験した刑務所生活の現状でしたが、現在では大きく様変わりしていることも予想されます。あの狭い独居で、二人の収容者が生活するのも稀でなくなったと聞いていますが、どうやってあの狭い部屋に二人で生活できるのか、想像が及ばないぐらいです。

 元検察官であった落合弁護士がブログで感慨を述べられているように、刑事司法も大きな変貌を遂げつつあるようです。さらに裁判員制度の施行という大きな社会問題が目前までカウントダウンで迫っているのに、当事者に巻き込まれる市民、国民の側は余りに無頓着で、無関心でもあるように感じております。
 マスコミ報道機関は裁判員制度について、否定的な意見、見解が目につくばかりで、それ見たことかという揚げ足取りの機会を虎視眈々と狙い、短期的な見通ししか持ってはいないような印象を受けています。一方でほとんど有効な反論も出ず、暴力的に成立された制度という話も聞きました。
 そのうち、民事賠償を背負った加害者が、収容所で返済のための不自由な生活を強いられるという時代も到来するかもしれません。私の予想をここできっぱりと述べておきますが、私が検察に働き掛けを行っている被告発人、被告訴人らの対応、言動が制度大改革の引き金になりうるかもしれません。
 あまりに無関心無頓着で、無視している現在の社会の傾向というのも、いわば連帯責任というかたちで、大きく反映される可能性も大いに想定されうることをご指摘しておきたいと思います。
 これは世界史的な価値観の転倒、コペルニクス的転回にも繋がりうる契機とも考えられる問題であり、私は情報発信を開始した当初から、暗にそのことを示唆してきたつもりでいます。
 判断材料としての事実関係の記載もまだ残っている段階ですが、今のうちにその点も明示的にご指摘しておきたいと思います。

 市民生活、国の将来を左右する大きな社会問題かもしれませんので、あまり関係のないと思われるテーマのブログにもトラックバックを送信させて頂きます。本文中で述べた事情もありますので、ご理解のほどお願い致します。