hatena-diary_20051206

[告発事件]未提出となった告発状の一部(平成17年8月14日作成分)


 時刻は8月14日16時37分になりました。寝たのは5時過ぎで、起きたのが、15時50分頃でした。昼はアパートの部屋の前の木に止まった蝉の声がうるさいので、夜の方に書く時間帯を切り替えました。
 まだ、事件のことはほとんど書いていないと思います。どうしてなかなか手が着かないのか、自分でも不思議なぐらいです。
 今の生活の不安といえば、仕事のことですが、これは平成9年に福井刑務所を出て以来、ずっと重くのしかかってきた問題です。実際には、今が一番安定しているのかもしれません。このあたりの事情というのは、詳しく書けませんが・・・・・。
 平成14年の11月の終わり頃から、今の派遣会社での仕事をするようになり、今のアパートに住むことになりました。実家の方に、ネットワークを接続していて、アパートの方でもインターネットの接続をしたところ、初めは実家の方をやめるつもりでNTTの人にも話をしていたのですが、これを機会に遠隔地同士のネットワーク接続をやってみて、サーバを立ててみることになったのです。
 もともとネットワークには関心があり、平成14年の春頃には、平成9年に買ったNEC98パソコンと新たに買ったソーテックのパソコンをネットワークケーブルで繋げました。確か、クロスケーブルというものだったと思います。
 パソコン同士を1対1で繋げたのですが、古い方のパソコンのOSがWindows95だったので、大変な手間が掛かりました。Windows95では出来ないという情報もあったぐらいでしたが、TCP/IPのバージョンアップなどあれこれやって、どうにかうまくいきました。
 あとになるとルータを導入することでそのような手間や苦労はまったく必要なくなると言うことを知りました。
 金沢刑務所を出たのが、平成13年の12月31日で、翌14年の4月の10日頃から仕事が決まり、家の近くの電子部品の工場で仕事をするようになりました。ハンダ槽の管理というのが主な仕事で、毎日夜遅くまで残業で、仕事の方も忙しくなり、休みのほとんどが日曜日だけでした。
 仕事を始めて間もなく5月頃にソーテックのパソコンをインターネットから申し込んで購入したのですが、車検切れの軽四は金沢にあずけたままで、ようやく車検を入れて取りにいったのが、9月の中頃でした。その直後に、電子部品の会社をやめました。この時は正社員でした。
 残業が多すぎて、自分の時間が取れないというのが、一番の理由でした。
 能都町の職安で、鉄筋屋でパソコンのデータ入力のアルバイトを募集していたので、面接に行くと、面接をした当日から仕事をさせてもらい、すぐに社会保険に入れると言われました。
 初めは300万円の業務用ソフトでデータ入力をやっていたのですが、鉄筋の加工の方をすることが多くなり、そのうち、少しですが現場にも出るようになりました。
 結局一月半ぐらいでやめたのですが、本気でやる気があるのかどうか試されたのだと思います。
 そして、仕事を探しているうちに、前に面接をした派遣会社の人から連絡があり、実家を離れ、アパート住まいで仕事をするようになりました。
 その前には、能都町漁協にも面接に行き、一週間ほどあとの連絡で不採用になったのですが、もしあの時採用になっていたならば、その後の成り行きは今とはまったく異なるものであったと思います。
 初めの派遣先には、1年半ぐらい。昨年つまり平成16年の7月の初め頃まで仕事をしました。光ファイバーケーブル関係の工場でした。一週間ほど前に、一緒に仕事をしている人から、あと一週間ほどでやめることになるらしいと言われ、そのあと班の担当者のような人にも言われ、上の人には何も言われないままやめることになりました。
 派遣会社の人から連絡があったのも3日ほど前だったと思います。自分の社会的な価値の低さを思い知らされたようで、衝撃を受け、不安になりました。幸い、10日ほどで別の派遣先が決まり、8月の中頃から新たに仕事をするようになりました。これも電子関係で、半導体の部品のようなものを扱う工場でした。
 前にも書いたことがあると思いますが、12月の末になって、確か年内の仕事の最終日から二日ほど前、来年の予定について尋ねたところ。年内でやめてもらうことになっていると初めて聞かされたのです。自分から尋ねなければ、もっとぎりぎりまで知らされていなかったかもしれません。
 他の人のことは分からないので、いちがいにはいえないかもしれないのですが、派遣社員としての身のはかなさを痛感して来ました。今年の2月のは初めまで仕事が決まらず、仕事が切れたあとの給料というのは、マイナス6万円近くでした。
 前借りでしのいできましたが、実際にはパチスロで負けたのが、負担の連続で、やっていなければ、もっとはやく元通りの生活が出来ていたと思います。焦る気持ちも手伝って、負けた分を取り戻そうとパチスロを繰り返し、実際、一時的には負けをいくらか取り戻したこともあったのですが、そのような繰り返しが続いて今に至っております。
 自分で言うのもなんですが、仕事自体は真面目で高い評価も受けています。しかし、40歳にもなって派遣社員を続け、独身であることも致命的なマイナスの烙印としての推定に働いているのではと思っています。
 仕事に対する不満や将来に対する不安は、ずっと続いているもので、金沢にいた平成11年がもっとひどかったといえるでしょう。派遣社員や日雇いの建設作業員としての現状に満足している方が、はるかにどうかしているはずです。
 しかし、再審というような問題を抱えている以上、理解を得ることも困難で、インターネットを通じた情報発信でも、追い打ちをかけるようなメールを頂くのがほとんどでした。気がついたらもう40歳を越えていて、進捗というものもありません。
 愚痴を書いているようですが、これが現実の私自身がおかれている立場の現状です。今のアパートだって、人が遊びに来たことは一度もありません。実家に帰ってもそうです。
ずっと独りの生活で、拘置所の独居房にいるのが続いているように感じです。
 正直言って、つらいし、現実逃避からもパチスロに行き、収入を根こそぎ貢ぐという繰り返しです。甘いとか、馬鹿だとか思われても仕方ありませんが、他人の評価など気にしてはいられないほどの不遇に喘いでおります。
 くすぶる不満を、パチスロで負け、次の給料日までどうやって生活するかという思案で紛らわすという繰り返しで、何も残るものはありません。
 失ったものの大きさ、重さについて検察庁や、警察がどのように考えているのかも想像がつきません。事実を明らかにして下さいというのが、必要条件のようですが、そのようなことは10年以上前から何度も何度も繰り返して来たことだと思います。
 不遇であるから救ってくれというつもりはありません。もはや手遅れ、これが偽らざる私の不安の根底に達しているのです。いったい、どうやって責任を取ってくれるのかという。
 二日前になりますか、8月12日の午前11時10分頃、久しぶりに御庁に電話を掛け、担当者のハラさんと話をしました。御庁の真意を測りかね、探りを入れるのはこの窓口しかありません。
 私自身が、必要な条件を満たしていないことはうすうす実感しております。このあたりは、プレステ2のゲームにもよく似ていると思います。ゲームのことですが、その後、金沢に行き、中古で「鬼武者」と「鬼武者2」というソフトを買いました。
 鬼武者の方は、「虫けら」というボスキャラが出たところで倒せずに行き詰まってしまい。「鬼武者2」の方を始めたのですが、こちらは、半分以上ゲームが進みました。具体的には「鬼ヶ島」のステージまで進み、「小谷のお邑」から「十兵衛」にキャラクタが戻ったところです。
 必要な条件をクリアしないと、次のステージに進むことが出来ないというのもゲームソフトの特徴かと思います。
 鬼武者というゲームソフトが爆発的なヒットをしたということはインターネットの情報で知りました。暇つぶしや気分転換もあってちょこちょこやっているのですが、これもパチスロ同様、本気で取り組むような気持ちにはなれません。パチスロでももっと研究をし、真剣に取り組んでいたならば、もっと負けも少なかったかもしれません。
 場当たりで、適当にやってきました。目押しも出来ないぐらいですから自分に才能がなく、向いていないこともよく分かっています。
 本当は、正業に就き、手に職をつけて自分の力量で稼ぎたいというのが長い間の私の願いであり、希望でした。
 しかし、再審という問題を片づけなければ人生のステージ移行が出来ないということも宿命的に自覚していました。自分だけでなく、自分に期待を寄せてくれた人々を裏切ることになり、迷惑をかけることにもなるという懸念も先走って抱いていました。
 いろいろな悪条件が自分自身を強化したことも自覚しております。前代未聞の歴史的なイベントをも手中に届くところに引き寄せたといえるかもしれません。
 ゲーム的な要素が強いとつくづく感じることがありますが、これは同時に、一般の固定的な観念を凌駕する想像を超えた未知の領域であるという気がします。
 私は、その未知なる世界への水先案内人としての役割をも担わされているのかもしれません。人生を夢幻のごとくなりと語ったのは織田信長であったと思います。
 私の書いていることを読んで、こいつはやはり頭がおかしいと感じている人も少なくはないかもしれません。初めからここまで読んでいる方は、根気のある敏感な人だと思います。時代の空気と変化に敏感であることは、未来への架け橋となる必要条件ではないかと思います。
 ゲーム性というと、プレステ2ではテレビでDVDのビデオが見れると、発売当初のニュースで聞いていました。私は今でもレンタルビデオの会員証を持っておらず、少なくとも6年以上は、ビデオを借りて観たことがありません。
 観れば面白いというのも分かってはいるのですが、インターネットで情報を集めたり、プログラミングの勉強をした方が、役に立つという実用主義と言いますか、功利的な考えが強く、およそ2時間という時間を使って映画を観る気にはなれません。
 刑務所にいたときは、欠かさず観ていました。基本的に週に2回はビデオの放映がありましたが、テレビ番組の録画放送ということもありました。当時のことは、正確には思い出せなくなっているのですが、3,4級生でも週に2回のビデオと2回のテレビ視聴がありました。
 福井刑務所と金沢刑務所でも違いがありましたが、2級生になっても金沢刑務所では自由チャンネルがありませんでした。金沢刑務所の2級生は毎日欠かさずテレビが観れたような気もするのですが、金曜日は放送がなかったかもしれません。
 とにかくいずれも土日以外の平日に2回ビデオ放送がありました。いずれも土日月曜日は7時から9時近くまでのおよそ2時間、テレビが観れ、福井刑務所の2級生のときは、自由にチャンネルが選べ、ニュース番組も見れました。
 この19時からのビデオ視聴は、部屋といいますか居房に備え付けのテレビで観るものでしたが、その他、体育館を兼ねた講堂でスクリーンの映写ビデオを観る機会もありました。代表的なのは集会と呼ばれるもので、2級生は毎月1回。3級生は2ヶ月に1回だったと思います。この集会のときはお菓子を食べることも出来ました。
 1級生というのもありましたが、福井刑務所、金沢刑務所ともに該当者が一人もいないと聞いていました。
 他にも無事故者集会というのがあり、こちらも映写ビデオの放映がありましたが、お菓子は出ませんでした。その他にも少ないですが年に何度か、全員で映写ビデオを観る機会がありました。
 これらのビデオ放映で、金沢刑務所で観たものを私は平成16年の春頃にメールで紹介したはずです。一般を含めた600件程度の送信だったと思います。
 一つ一つの映画についての説明はしておりません。時間もかかるので、今もする気持ちにはなれません。印象に残って、記憶にある映画の題名を紹介したのですが、一つ忘れていたものがありました。
 それは「ビューティフルライフ」という映画でした。今インターネットで調べるとヒットが少なかったのですが、
Roberto Benigni監督 Roberto Benigni, Nicoletta Braschi, Bustric主演
という情報を得ました。1997年のイタリア映画のようです。
 ナチスユダヤ人収容所での物語です。主人公は最後は警備兵の立ち小便にでも行くような感覚であっさりと殺されてしまうのですが、翌日には、アメリカ軍が来て、収容者は解放されました。何もせずに寝ていれば、翌日には自由のみになり、死ぬこともなかったのかもしれません。そのあたりも含め、含蓄のあるよくできた映画でした。
 あと特別に紹介しておきたい映画として二つ挙げたいと思います。
 一つは、「さくや妖怪伝」という日本映画。今インターネットで調べると、
1707年。人心の乱れが神々の力を弱め、富士は噴火し、ひび割れた地中深くから封印された妖魔たちが解き放たれる。
という紹介したかったナレーションが見つかりました。このような漫画を刑務所で放送するのは極めて珍しいと服役経験の豊富な現役暴力団の人も驚いていました。
 もう一つは、「レプリコーン 妖精伝説」という洋画でした。これは私が出所する直前の正月休みに入ってからの昼間の放送でした。仮釈放の場合は、出る日の1週間か2週間前に確か復帰寮というところで生活するのですが、満期釈放の私は、独居房にいました。本当は、自由チャンネルで好きな番組が見れると聞いていたのですが、釈前の居房に移る直前になって、釈前の自由チャンネルは中止になったらしいと噂を聞き、職員からもそのように言われました。
 完全ではありませんが、半ば映画を観ることが強制されたようなものです。ところが、この映画を観たのは、始まってから30分ほど過ぎたあたりからでした。というのも直前に入浴だと言われ、風呂に入りに行っていたからです。
 戻ってから観たのですが、ストーリーがつかみにくくなっていました。ポイントとして、ある男女が引き離され、それは他の人達の争いに理由があり、争いが解決されない以上会うことは出来ないようなものであったと思います。
 ところが、最後がどうだったかも記憶にはありません。二ヶ月ぐらい前、レンタルビデオ店には行って、この洋画のDVDを探してのですが、見つかりませんでした。
 12月の中頃には、無事故者集会だったと思うのですが、映写ビデオでジャッキーチェン主演の「ゴージャス」という香港映画もありました。女の子が、イルカに香港に行った方が良いかと尋ねると、イルカが大きな動きで行くべきだと勧めていました。
 これは、わたしが出所後金沢で生活することを勧めるような示唆とも、金沢に出る気持ちがあるのか反応を見るために試されているとも解釈することが出来ました。
 レプリコーンでは、私に対するメッセージと言うより、他者に対する理由とも。その他者の事情で、もっと待つ必要があるという私に対するメッセージとも見ることが出来ました。
 いずれにせよ、私自身には金沢に出て生活する気持ちはほとんどなかったし、事実上もお金の面で無理がありました。お金があっても、金沢でアパートを借りるとなれば、保証人が必要と考えられ、なってもらえるような当てもまったくなくなっていたからです。
 それに刑務所で知り合った人に顔を会わすという可能性もありました。
 金沢刑務所で服役する前も、借家に家賃だけで月に6万5千円必要で、それだけでもプレッシャーが重く、精神的に疲弊していたのです。あんな思いはしたくないという気持ちも強く働いていました。
 兄弟もいないし、金沢では親戚もなく、頼みの同郷の友人は敵性である市場急配センター側の意向に添ったような態度があからさまで、油断もならず、孤立を深めるばかりでした。
 福井刑務所を出たあと半年ほど実家のある宇出津にいて、それから金沢で生活を始めたことはこれまでにも何度か説明をしてきたと思います。
 平成9年の1月18日に福井刑務所を出て、7月の初めに金沢の北安江というところの借家で生活を始めました。引っ越しをしてから仕事を探し始めました。
 借家を探してくれたのも大網健二でした。何も言わずに借家の保証人にもなってくれていました。他にも何件か物件を見て回ったのですが、割と条件もよい北安江の借家に決めたのです。
 気になったのは、初めに大網健二とその物件を見に行ったとき、一階の家族が中心的に使うような部屋の窓のサッシの鍵が開けたままになっていたことです。鍵というのは正確ではないかも知れないのですが、よくある窓が開かないようにする部分です。
 大網健二はすべて台本通りのような感じで、協力的に手際よく手配をしてくれました。初めに引っ越しで借家に荷物を運び込んだときも、ゴキブリが出ると、コンビニに行って、いわゆるゴキブリほいほいのようなものやスプレー式のものなど複数の種類を一度に4,5個ほど買ってきました。パンや飲み物も買ってきましたが、ある程度片づくと早々に帰ってゆきました。
 その時は、加田義満と二人で宇出津の実家までトラックに乗って荷物を運びに来たのですが、トラックのチャーター費用も問題にはせず、当然のような態度でした。ポイントを稼いでいるような満足感が窺えましたが、打算のある行為に思えました。
 そのトラックは、以前市場急配センターで持ち込む運転手の仕事をしていた。宇出津のカワムラという人から借りたと言います。私もその人のことは知っていました。
 その後、平成11年の2月頃、大網健二の指示で一緒に金沢の市役所に行ったとき、そのカワムラという人に会いました。市役所の駐車場ではベンツが停めれないので、県庁の方に停めた方がよいなどと大網健二が事前の電話で話をしていたことも覚えています。
 大網健二に心配そうに相談していましたが、中小企業向けの行政サービスに関するような問題であったと思います。
 一方で、私に対する市役所での用事は、単なる口実のような付け合わせのものでした。
 カワムラさんは私のことも事件のことも知っているはずなのに、素知らぬ顔で、自分の抱えている問題のことをしきりに心配しているような様子でした。
 詳しいことは分からないのですが、どうやらこのカワムラさんがかねてから松平日出男の知り合いで、松平日出男が声をかけて持ち込み運転手の仕事をするようになったようです。
 その松平日出男が金沢市場輸送に来たのは、確か金沢市場輸送の事務所が中央市場前の西念町リの一番地のテナントから、現在の場所に移って間もない頃でした。これは昭和63年のように思います。
 まず7月の初めぐらいに金沢市場輸送の事務所が移転になり、9月の初めぐらいに松平日出男が来ました。それからまもなくカワムラさんと相棒のカーボこと中町和也さんが、2トン車で仕事をするようになったのです。
 大網健二はカワムラさんともかねてからの知り合いで、親しくしていたようですが、中町さんとも付き合いをしていたようでした。中町さんは私が16歳の頃から知っていて、友人のグループを通じてよく一緒に遊ぶ機会があり、よく知っていました。
 その後、その中町さんの紹介で、浜口卓也が同じく持ち込みの仕事をするようになりました。この頃には、すでに金沢市場輸送から独立して、市場急配センターという会社になっていたかもしれません。
 独立分離してからも、しばらくの間は金沢市場輸送の事務所に間借りをするようなかたちで以前通りに仕事をし、同じ会社のようなものでした。
 今の市場急配センターの事務所が出来たのは平成元年の春だったと思います。ちょうど同じ頃に、文さんが入社したはずですが、朝から一日中、事務所で姿を見るようなことはなく、すでに市場急配センターの事務所が移転したあとであったと考えられます。
 これと前後して、ほぼ同時期に会社を去ったのが、小林健一でした。
 吉村哲と藤田さんの二人の配車係も6月頃にやめていなくなりました。

[告発の事実]実名の公開について

 アクセス数は、丸一日で120件程度でしたが、21時以降はとても少なくなっています。これは、ユニークID数です。
 かなり幅広くブログのご案内をしてきたのですが、その割りにはずいぶん少ない気がします。だいたい一日に100件程度というのは、一月ほど前に開始した「現代司法の問題点(http://blog.goo.ne.jp/hirono_2005/)」とほぼ同じくらいです。
 こちら方が見た目も明るい感じなので、もう少しは増えるかと期待していたのですが、過剰の期待だったのでしょうか。
 この少なさは、かえって不気味な沈黙にも感じます。これまでのところ、投稿等に関するメールは頂いておりません。
 アクセス数自体にも、いささか疑問がないわけではないのですが、これが事実だとすると、やはり問題がありそうです。
 一つには、実名の記載などで、トラブルに巻き込まれるような不安を感じた方が、少なくはないのかもしれません。
 内容にいい加減なあれば、それなりの連絡もあるかと思います。
 忌避されているのでしょうか。やはり。

 前回の投稿で吉村哲、小林健一という名前を出しました。二人とも事件とはまったく関わりがないわけではありません。真相を伝えるには、不可欠とも言える人物です。しかしながら推測の範囲で、あまり詳細に書くにもためらいがあります。関係者と書けば、疑いのある人物に思われそうですが、被告発人らに多数の接点があることは事実です。
 いずれにせよ、真相は藪のなかです。真相がはっきりしなくても、結果としての犯罪行為との因果関係は明確であり、その範囲で被告発人を絞りましたが、それがすべてというわけではありません。
 検察や、警察は私以上の情報を握っていることでしょう。それがまったく沈黙したまま、成り行きを静観しています。かなり思い切ったこともやって来たのですが、まったく触れずじまいであり、遮る気配は皆無です。
 その意味でも、私は間接的に警察の対応を見ることで、自分の心証の確度を試してきたわけです。

 大網健二にせよ、私は長い間、敵なのか味方なのか判断にずいぶんと迷ってきました。期待していたのは、味方であることでした。今回は、詳しく述べませんが、敵であるらしいという確証を得るようになったのは、ネットワークでの活動を初めてからのことです。
 敵であることを前提にすると、それはずいぶん恐ろしく不気味な現実でした。また、受け容れがたいものでもありました。

 先に小林健一について、ご説明しておきます。彼は重要な人物の一人です。しかし、前回の記事にも書いたように、安藤文とほぼ入れ替えの感じで、会社を去って行きました。平成2年の春のことです。また、市場急配センターの現在の社屋が出来る前に、いなくなったはずです。
 やめると聞き、だいたい一週間ぐらいで足早に去って行きました。
 時間の関係もあり、ここではあまり詳しくは説明できませんが、彼は金沢港でのイワシの運搬で、市場急配センターの現場監督というか管理者のようなことをやっていました。
 イワシの捕れる時期と仕事がだいたい決まっており、3月頃になるとかなり暇になっていて、4月になるとごくわずかになっていました。
 その暇になった頃、彼は誰も他に出来るものがいないので、パソコンのデータ入力をやらされているが、手当も付かないとぼやいていたのです。
 イワシの運搬をやっていたのは、金沢市場輸送のトラックがメインでしたが、仕事自体は、税金対策らしく、市場急配センターからの請け負いというかたちになっていたのです。
 私は10トン平ボディ車でそのイワシの運搬をやっていたので、彼とはしょっちゅう一緒にいました。入社自体はそれよりかなり前で、昭和61年の秋頃にはいたかもしれません。
 もともと金沢市場輸送で日通カラーの平ボディ車に乗務し、日通のローカル(地場)仕事をやっていたのです。日通とは日本通運のことです。現在のことは知りませんが、その当時は、日本最大の運送会社と聞いていました。大手ですが、下請けを沢山使っているようでした。金沢市場輸送もその下請けの仕事をしていたのですが、竹沢俊寿が以前、日通で働いていたような話も仄聞したことがありました。
 ヤクザの組長をしていたとか、土建屋を経営していたとかいろいろな話がありましたが、人柄同様謎の多い人物でした。大言壮語、大ぼらふきといった一面があり、誰もまともな人間とは思っていないようでした。
 いつの間にか市場急配センターの社員となっていたらしい小林健一ですが、そのことから考えても、すでに市場急配センターという名称の会社は出来ていたはずです。
 イワシの仕事をするようになって、頻繁に話をするようになったのですが、自分のことを、県警機動隊員で白バイに乗っていたと言い、さらに最高裁判事の息子と言っていたのです。
 竹沢自身が、その事実を裏付けるような話を休憩室でしたことがあり、社会勉強として、父親が旧知の友人である竹沢俊寿にあずけたようなことを言っていました。
 竹沢俊寿本人も、ずいぶん前から、中央大学で空手部をやっていたと自慢話として誰彼となく吹聴していたようです。私も何度かその話を本人から聞かされていましたが、卒業はせず、中退したと言っていたように思います。
 大日本青思会、正式名称は大日本青年思想研究会という右翼団体に所属していたとも私に話していました。

 小林健一は、実家が群馬県の渋川か沼田あたりにあるといい、大きな梅園を持っていて、家庭の事情で管理をしなければならなくなったので、群馬に帰るとやめると聞いたときに話していました。

 それから1年ほど先でしょうか。平成3年の3,4月頃だったと思います。群馬県前橋の国道50号線上で、信号待ちをしていたところ、大型バイクに乗った小林健一に声を掛けられたことがありました。
 その時私は、富山の魚津市からYKK吉田工業のアルミサッシを積み、それを熊本県八代市で降ろし、翌日に鹿児島の市場から白菜を積み、その白菜を夜中に長野市の市場で降ろし、途中食堂の駐車場で寝て、朝起きて、茨城県の古河の市場に向かうところでした。

 このあたりの事実も私は早い段階で、裁判所に伝えました。平成4年の9月頃には遅くても伝わっていたはずです。最高裁の判事というのは、現在のことは知りませんが、日本で15人しかいないはずです。事実の確認は容易であったはずです。

 しかし、最高裁判事の息子が、ウサギの絵を描いたポンコツのワゴン車にラビット号と命名し、焼酎の大きなペットボトルをラッパ飲みしながら運転などするものでしょうか。
 かなりの酒好きで、飲むとものすごく上機嫌でした。
 家は、金沢でも屈指の貧民街のような場所で、住所は若宮だったと思いますが、ボロボロの借家が軒を連ねていました。実際は、そんなにひどくもなかったのですが、平均的な当時の生活レベルからすると、最低級のような印象を受けたのです。
 その家に行ったのは、一度だけでしたが、奥から妻に追い返されました。かなりの恐妻家らしく、ヒステリー状態でした。その時の用事というのは、潜水用のボンベなど潜水道具一式を買わないかとすすめられ、現物を見に行ったのです。潜水には少し興味があり、迷ったのですが買うことはありませんでした。警察時代、救助訓練などで使っていたと話していました。
 加賀市の方で、派出所勤務をしていたこともあり、交通事故の現場で、以前相手になったソープ嬢と鉢合わせになり気まずい思いをしたなどと、具体的に話していたこともありました。
 また、機動隊にいた頃は、勤務時間外でも自分の乗用車にサイレンをつけ、覆面パトカーのように取り締まりを行う熱血ぶりで、上司にそのことで注意を受け、口論になって、それがきっかけで警察を辞めたというようなことも話していましたが、この時は、やや不自然に感じました。

 最高裁判事の息子であるという話を聞かされたときは、裁判所のことなど何も知識がなかったので、格別疑いも感じませんでしたが、真に受けて信じ切るようなこともありませんでした。それだけ、裁判というのは縁のない遠い世界で、興味も関心もなかったのです。

 以上はこれまで、マスコミ、大学向けのメールにも書いてきたはずです。告発状のなかで触れたかどうかは、覚えがないのですが、書いていないような気がします。

 次に、まったく初めて書くことを紹介しておきます。裁判所宛の書面等には何度か書いてきたことです。
 これも平成2年から平成3年頃に聞いた話で、話をしたのは金沢市場輸送の同じ大型運転手で、口取修という男です。今回は、簡単に説明しておきます。
 彼の話によると、内浦町松波の松波中学校で相撲をしていた出口という人が、社会に出て、新潟運輸の長距離運転手をしていたところ、関越自動車道の沼田インター付近で、居眠り運転をし、事故を起こしそうになって、一台のトラックだったと思うのですが、車を横転させたと言います。
 運転手は気を失っていただけなのに、死んでしまったと思い込んだ出口さんは、悲観して陸橋から身を投げ、自殺したそうです。
 あまりに具体的に特定された話なので、嘘とは思えませんが、この話も私の心理に少なからぬ影響を与えていました。これがもし作り話であれば、事前工作の一環であった可能性が濃厚です。
 出口さんについては、中学校のとき知っていました。相撲大会の優勝候補の一人でそのあたりでは有名な選手だったからです。
 私も相撲部に所属していました。能都中学校です。練習はほとんどすべて、石川県立水産高校の相撲部で行っていました。そのため、先輩との面識も広がり、その一人は、市場急配センターで浜口卓也らと仕事をしていたこともあり、カワムラさん、中町さんらと独立した仕事を始めていると聞いていました。安田敏とも付き合いや、面識があるはずです。

 安田敏がシンナーで発狂し、松波の町営住宅で隣の家に上がり込み、寝ていた婦人の首を締め上げた話は、告発状のなかでもしたことがあると思います。それは、暴力団員の妻であり、その暴力団員とは周一を介して、会ったことがありました。
 昭和61年の終わりか、62年の初め頃、金沢市場輸送の事務所で、竹沢俊寿と話をし、別れて帰る姿を見たのは、その人でした。
 昭和56,7年のことで記憶の方も曖昧なのですが、市場急配センターの関係者2人は、その安田敏の発狂時、一緒にシンナーを吸っていた、現場にいたと聞いた記憶もあります。

 昭和61年の11,2月頃から62年の1月頃に掛け、金沢市場輸送で一緒にミールの仕事をしていたTさんは、平成元年の1月頃、松波の岸壁で自殺をしました。彼は、安田敏の水産高校のクラスメートでもあったはずです。
 高校を卒業して、安田敏は同じ中央市場にあるウロコ水産に就職し、Tさんは金沢市場輸送で4トン車で長距離の仕事をしていたと聞きます。
 Tさんは、大網周一もよく知る関係でした。しかし、彼らは沈痛に押し黙るばかりで、話題にすることも出来ないような雰囲気があり、彼らからは何も聞くことが出来ませんでした。
 松平日出男と石川トヨタで一緒だったという竹林から聞いたのだと思いますが、自殺するとき、買ったばかりの赤色の軽四で、ぐるぐると3回転ぐらい円を描くように車を走らせ、海に飛び込んだそうです。目撃者がいたことになりそうです。人気の少ないところですが、たまたま見ている人がいたのかもしれません。
 この自殺は、新聞に出ていました。
 Tさんの妻は、大網周一の同級生で、仲の良い友達でした。私も以前、何度か一緒に遊んだことがあり、よく知っています。
 平成3年12月21日の夜、浜口卓也に連れられて片町の飲みに行きましたが、そのうちの店の一件が、その女の人が働く店で、もう一人以前からとても仲の良い女性も一緒に働いていました。

 詳しくは書けず、真偽のほども不明ですが、Tさんの自殺で、1億円以上の保険金が降りたと聞きました。

 平成3年9月20日頃、金沢市内大場町東の大網健二の家で、大網周一の結婚祝いの飲み会があったのですが、その場には、その女の人もいて、彼氏という男の姿もありました。おそらくは同一人物だと思われるのですが、再婚したそうです。あるいは既に再婚していたのかもしれません。

 取り立てて、疑惑を煽るつもりは毛頭ないのですが、犯罪目的の可能性の一つとして、私の口封じがあった可能性はある程度あるかと思います。

 大網兄弟の父親の殺人事件では、殺したあと被害者宅に放火も行われたと新聞で知りました。確か、現住建造物放火は殺人より重い罪だったかと思います。法定刑の下限が殺人の3年より高かったような記憶があります。
 今確認の方はしておりません。

 その事件は金沢地方検察庁が死刑を求刑し、無期の判決が出て、高等検察庁最高検察庁と協議の上、上告を断念したと新聞で見たように思いますが、今考えるといっそう、不可解です。
 二人の殺人に、強盗殺人的要素が加わり、おまけに放火までしていたとなると、死刑にならなかったのが不思議です。
 死刑判決を出しては、拘禁病で気が狂う可能性があり、そうなっては真相の解明にも支障が出ると判断されたのかもしれません。

 ここまで読んで驚かれたかもしれませんが、すべて事実です。これが、検察、警察やマスコミの重い沈黙の理由の一つなのかもしれません。

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20051206
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