石川県警提出書面)高島章弁護士が唱える「仰天の理屈」と木梨松嗣弁護士に悪用された山口成良金沢大学教授の精神鑑定という刑法の世界・七尾市の精神病院.md

TITLE:石川県警提出書面)高島章弁護士が唱える「仰天の理屈」と木梨松嗣弁護士に悪用された山口成良金沢大学教授の精神鑑定という刑法の世界・七尾市の精神病院.md
CATEGORY:2017年5月提出予定の書面,珠洲警察署,石川県警察提出書面,高島章弁護士,山口成良金沢大学教授,精神鑑定,犯罪被害者,木梨松嗣弁護士

>> 2017/05/06(土) 20:21:36 >>

石川県警提出書面)「板倉宏先生の訃報に接し,心から哀悼の意を表します。」という刑裁サイ太にみる、弁護士脳の社会汚染と憲法上の権利侵害の本質.md http://hirono-hideki.hatenablog.com/entry/2017/05/03/081016

 作成は上記エントリーの続きになります。次へのステップとして上記エントリーの終わりにも書いたのですが、方針を定め、とりあえず、高島章弁護士(新潟県弁護士会)と山口成良金沢大学教授をセットで取り上げることにしました。

 一昨日になりますが、5月4日、スクーターのバイクで久しぶりの遠出をして、七尾市に行ってきました。目的は2つあって、一つは昨年も見に行った青柏祭の、大地主神社での3基のデカ山の揃い踏みを見に行くこと、もう一つは会話に雑音が出るスマホの機種交換でした。

 スマホは確か2012年の4月に珠洲市のショップで買ったもので、雑音のことなど他にも不調があって、3月の春先だったように思いますが、穴水のショップでSIMカードの交換をしてもらいました。機種が古いので不具合は解消されないかもしれないと言われていました。

 スマホの機械交換をしたのは昨年の11月だったと思います。ネットの手続きで済ませることが出来、割引もあって費用は2千円ぐらいで済みましたが、ショップでのSIMカードの交換を勧められていました。

 事前にネットで調べた青柏祭の運行予定では、12時半頃に3基のデカ山が大地主神社の前に集まる、ということになっていたので、それに間に合うよう出発をしました。当日は快晴で気温も暖かく、風もほとんどなくて、最高の条件にも思えました。

 昨年も同じ5月4日に青柏祭を見に行ったのですが、デカ山を見たのは夕方に近い時間からで、事前の調べというのも余りしておらず、地元宇出津のあばれ祭りのことがあって、通行規制のことにばかり気が取られていました。

 出発する直前に調べた情報で、七尾市にはauショップが2つあって、一つが七尾ベイモール店、もう一つが七尾ナッピィモール店でした。急いでいたので店名の確認などしていなかったのですが、ベイモール店というのは、どの辺りにあるのか、地図で見てもよくわかりませんでした。

 七尾市の中心部に入る手前で、auショップの看板があり、いつも七尾に来ると帰りに立ち寄るモズバーガーのあるショッピングタウンだとわかりました。その日も帰りに立ち寄り、チーズバーガー一つとバニラシェイクのsサイズを買いました。ちょうど500円だったと思います。

 宇出津に住んでいると、まともなハンバーガーやシェイクを食すことが出来るのも、この七尾に行ったときぐらいのことです。今回も七尾市内のセブンイレブンのコンビニに立ち寄りましたが、シェイクが見当たらず、何も買わずに出てきました。前回は昨年で和倉温泉の店舗でした。

 セブンイレブンと言えば、思い出すのはシェイクで、チョコレートのシェイクをよく買った記憶があります。特に利用が多かったのは、鮮魚の荷物を積んで出発直後という共通がある、福岡の長浜魚市場の前の店舗と、宮城県塩釜市の国道45号線沿いの店舗でした。

 シェイクと言えば、以前SMAPの歌が大ヒットしていて、耳にする機会が多く、歌詞の一部に「時代の策士」と聞こえる部分があって気になっていました。あとになってテレビの字幕か何かで、「渋滞のタクシーも」とわかったのですが、耳にする度に七尾市の被告訴人東渡好信のことが頭に浮かびました。

 大地主神社で3基のデカ山が勢揃いすると、思ったより早くこれから休憩に入ります、というアナウンスがありました。バイクでベイモールまで行くか迷ったのですが、そのまま大地主神社から歩いてナッピィモールの方に向かうことにしました。

 その時点では、ナッピィモールという名称も知らず、auショップのある場所もはっきりわからずにいました。出発するときの考えではバイクでベイモールまで行くつもりでいたので、よく場所を確認をしていなかったのです。

 それでも七尾市で商業施設のある場所というのは決まっていて、だいたいの場所は事前に把握をしていたので、国道159号線沿いにあるものと見当をつけ、そのまま歩いていました。国道159線というのは、今ネットのGoogleマップで確認したものです。

 市場急配センターの長距離トラックの仕事でも、ほとんどがこの国道159線で七尾市に入っていました。当時の能登有料道路のと里山海道)を使うと今浜インターで降りて、七尾市内に向かっていました。

 その国道159線で七尾市の中心部に入ると大きな道の交差点にぶつかり、右にいくと富山県氷見市方面へ。今、Googleマップで確認するとこれば国道160号線のようです。同じ交差点を左折して直進していくと七尾駅前に出ましたが、現在は新しい広い道も出来て少しややこしくなっています。

 その交差点から氷見方面に向かって、少し行くと大地主神社に入る道がありますが、国道沿いから少し入ったところに大きな神社があるとは、昨年まで知りませんでした。

 七尾市の大地主神社に行ったのは昨年の青柏祭が初めてということになりますが、デカ山が出揃う神社前の広場は、初めて見た時に、来たことがある場所だと思いました。似たような場所として中学校で行った京都・奈良の寺社仏閣の可能性も考えるのですが、遠い昔に来た場所と酷似していると思いました。

 その子ども時代に記憶にあるのは、バス遠足で七尾市のあたりに行ったことです。しかし、記憶に残っているのは牛乳の会社だけです。消防署のような建物だったという場面が記憶にあるのですが、パックの牛乳を全員でもらった記憶があり、当時はパックの飲み物が珍しく記憶に残ったのかもしれません。

 同じ頃の記憶として、立体的な三角形の紙パックの飲み物がありました。ジュースだったと思いますが、その一時期だけの流行で、その後は現在の農協の牛乳のような紙パックが一般的になりました。小学校では給食の牛乳も瓶だったと思います。たぶん評判の悪い脱脂粉乳です。

 昨年の告訴状に書いたと思いますが、七尾市の青柏祭は小さい頃に一度見に行った記憶があり、記憶にあるのは夜に七尾の駅前の近くの川沿いでデカ山を見たという一場面だけです。父親の姉が七尾市に住んでいて、そこに行ったはずですが、その家の場所も何も記憶には残っていません。

 いずれも辺田の浜に住んでいた頃の記憶で、小学校の低学年の頃になるのかと思います。今回、auショップを探しながら国道159線沿いを歩いていて、当時のことを思い出す意外な発見がありました。

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 上記は、大地主神社で3基のデカ山が勢揃いしたあとのスマホで撮影した写真です。この時点では機種変更前のAndroidスマホでした。

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 上記は国道159線沿いを歩きながらauショップを探しているときの写真です。気になる発見をしたあとの撮影で、さきほど触れた、auショップの帰りに立ち寄ったセブンイレブンのコンビニがたまたま手前に写っていますが、撮影の目的は、本という看板のある建物の向こう側にある病院の建物です。

 あとでauショップの帰り道に撮影した写真もあるかと思いますが、ふと気になるコンクリートの古い建物が目に入り、同じ敷地内の手前の方にある新しい別の建物で確認したところ、私の気になった直感は当たっていて、初めに気になったのは松原病院の古い建物だったのです。

 国道沿いからはけっこう入り込んだ建物なので、バイクで走行していれば気がつくことはなかったと思います。まず気になる建物が目に入って、これは昔の精神病院の病棟にしか見えないと考え、子どもの頃、初めに話を聞いた松原病院は、金沢市ではなく七尾市ではなかったかと思い出したのです。

 昭和40年代の後半に間違いないと思いますが、子供の間で、その松原病院のことが話題になり、キチガイ病院と呼びまるでお化け屋敷と同じような扱いを受けていました。

 キチガイが集まる松原病院というすごいところがあり、それに近いものとして「宇出津病院の裏」と呼ばれる存在がありました。まるで、七尾市の青柏祭のデカ山と宇出津の曳山祭の似て非なるスケールの違いを考えさせられるものでした。

 当時の宇出津病院というのは、同じ敷地内の前の建物で、2階建てかあるいは3階建ての病院でした。正面玄関は現在の建物とほぼ同じで、その左手の奥の方に「宇出津病院の裏」と呼ばれる怪奇スポットのような場所がありました。裏口ではないものの簡単な柵の出入り口があったと記憶しています。

 出入り口というよりは裏庭のようになっていて、真ん中の辺りに桜の木が一本あったと記憶しています。忘れることが出来ないのは、被告訴人OSNが、その木に彼の同級生の子供を縛り付け、泣き叫ぶその姿を見ながらものすごく喜んでいたという光景でした。子供心にただならぬものを感じてのことです。

 それが被告訴人OSNを最初に見た記憶ともなっていますが、当時既に同級生の被告訴人大網健二の兄であることは知っていたと思います。その場に被告訴人大網健二の姿を見ていたという記憶はありません。

 その宇出津病院の裏には、キチガイが収容されていると聞いていました。当時の宇出津病院に精神科があったというはっきりした記憶はないのですが、現在は脳神経外科もないはずで、当時の方が精神疾患の人も多かったのかと考えるところもあります。

 2009年の8月31日の朝、母親が家を最後にして救急車で運ばれたとき、十八束から左折して宇出津病院には向かわず、右折して珠洲方面に向かったとき、なぜなのか戸惑ったのですが、あとになって救急隊員が脳の障害だと判断し、脳神経外科のある珠洲市総合病院に向かったのだと理解しました。

 子どもの頃、松原病院の話を聞いたのは子供同士の間のことでしたが、同じ頃大人も含めて大きな話題になっていたのが、8番ラーメンでした。昨年あたりも石川県のソウルフードとしてケンミンショーの番組に取り上げられていましたが、石川県では有名なラーメンチェーン店です。

 噂に聞いていた8番ラーメンには、母親に連れられて行った記憶がかすかに残っています。ものすごいラーメンだと母親からも聞かされていましたし、周囲の評判も同じものでした。どこで食べたのかはっきりした記憶はないのですが、七尾市であった可能性が高いように思います。

 その8番ラーメンでは、従業員が冷蔵庫でネコの頭を見つけたという噂がまことしやかに流れるようになりました。生き残りをかけたライバル店のラーメン屋が流したデマという話もありましたが、8番ラーメンと聞くだけでネコの頭が想像され、マイナスのイメージ効果はかなり高かったはずです。

 その後、昭和58年になるかと思いますが、マクドナルドのハンバーガーで肉に養殖のミミズが使われているという話がありました。そちらの方が信憑性もはるかに高かったと思います。養殖であればコストも大幅に削減できると考えられたからです。

 これは被告訴人大網健二の大橋組の家で、帰省していた彼の妹から聞いた記憶が残っています。東京に行っていて、つくばの万博でマクドナルドのアルバイトをしているとか、していたと話していたと思いますが、完全に信じて疑わない様子で、恐怖体験のようにミミズの肉の話をしていました。

マクドナルドでミミズの肉が使われてたというのは本当ですか - 食べ物・食材 解決済 | 教えて!goo https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3993089.html

 前にも調べた記憶がありますが、少し調べると上記のページが見つかりました。30年前という話もありましたが、2008年の時点でも気にする人がいた都市伝説ということになりそうです。

 近年では、中国の豚まんにダンボールが混ぜられているという話もあるぐらいですが、猫の頭や養殖ミミズの真相より、それを信じる人への影響力の大きさを考えさせられる問題で、それに大学教授のような肩書がつけば、どうなるのかと想像してしまいます。

 昭和の時代というのは、東大に代表される学歴社会への信仰が強く、大学の教授というのも特別な存在でした。雲の上の存在だったと思います。記憶にあるのは、白い巨塔というドラマの財前教授と、山口百恵が主演の赤いシリーズでの、父親役の助教授という物語性でした。

 ドラマの白い巨塔はリメイクされたものの再放送を、昨年あたり、夕方16時ころの番組として見る機会がありました。その前の昭和の時代のドラマは、YouTubeの動画で少し見ましたが、その大ヒットとなった昭和のドラマは、放送終了後に主演の俳優が自殺したことでも話題になりました。

 時刻は23時15分となっています。ついさきほどテレビの情報番組で、立川市武蔵村山市の近郊で80枚のカーブミラーが割られるという器物損壊の事件の報道があり、防犯カメラの映像が出ていたのですが、これまでに見たことのない鮮明な映像となっていました。それも否認しているとのことです。

 直前にネットで調べた次のページを読んでいました。4つのページに分かれていて、ちょうど1ページ目を読み終えたところでした。田宮二郎という二郎の漢字を確認するための検索でした。

38年の沈黙を破り田宮二郎"猟銃自殺"の真相を遺族が告白! 夫人は「白い巨塔が原因」、長男は「植毛がきっかけ」 - エキサイトニュース(¼) http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20160218/Litera_1988.html

 猟銃自殺というのも初めて知ったような気になったのですが、38年前というのもピンと来ません。「12月26日、クランクアップしたドラマ最終回の試写を幸子夫人と一緒に観た2日後、自ら命を絶った。」と日付がありますが、正確な年のことがわかりません。昨年2016年の記事のようです。

 自殺する10年以上前から精神病を患っていて、躁うつ病だったとも書いてあります。精神の病が自殺に繋がったという話は以前にも見ていたかと思います。田宮二郎といえば、この白い巨塔の役柄しか記憶にないのですが、とても真面目そうな人物で、ドラマも難しすぎて理解できない内容でした。

 当時はタブー視されていたとも考えるのですが、自殺というものがテレビで話題になることは少なく、生まれて初めて自殺という話題に触れたのも、白い巨塔で有名な俳優田宮二郎の自殺であったと、これまでの記憶に残っています。

沖雅也の自殺の真相|爆報!THEフライデー – テレビのまとめ https://tvmatome.net/archives/5565

 次に芸能人として記憶にある自殺の報道として調べたのが上記のページです。田宮二郎とは違い、調べたのも今回が初めてかと思いますが、同じくうつ病の精神病であったことが書いてあり、そのきっかけが高速道路でのささいな単独事故とあり、精神状態が壊れていったと、書いてあります。

 昭和58年6月28日にホテルから飛び降り自殺をしたとのことです。一週間ほど前にテレビで見たホテルニュージャパンの大火災も同じ頃のニュースだったと思いますが、沖雅也の自殺のニュースは、たまたまテレビのワイドショーで目にしたという記憶でした。

 そのあとになると思いますが、自殺としてもっともショッキングだったのは、アイドル岡田有希子の投身自殺でした。若い女性の自殺というだけで、当時は聞いたことのないニュースで、それが人気絶頂のアイドルの自殺であったので、身近な存在ではなかったものの世の中が変わったように感じました。

【投身自殺】悲劇のアイドル岡田有希子 自殺の真相 - NAVER まとめ https://matome.naver.jp/odai/2140270420996798701

 上記のページに書いてありましたが、手首を切ったガス自殺の失敗の直後に、投身自殺をしたということで、これは今夜初めて知ったことだと思います。生々しく道路にうつ伏せになっている自殺直後の写真を、目にする機会が多かったことも記憶にあります。

 峰岸徹という当時中年だった俳優との恋愛関係のもつれが自殺の動機となったという話で、当時は疑いもなくその話を信じていました。直後に後追い自殺もいくつかあったということで、当時は大きな社会問題にもなっていました。

 健康にも容姿にも類まれに恵まれていると思われるアイドルの若い女性が自殺したということは、それだけ大きな悩みを抱えていたということで、そのことが平成4年の事件前の被害者安藤文さんの姿と重なり、アイドル岡田有希子の自殺の報道が思い出されることもありました。

 今回、確認したのは自殺があった1986年4月8日という日付です。昭和61年になりますが、2月いっぱいで中西運輸商をやめ、3月の10日頃に結婚式を挙げ、たしか150日と60日、の免許停止という時期のことです。近くの道路舗装の会社でアルバイトを始めていたとも思います。

 その昭和61年の6月の中頃には、免停が明けてすぐ、被告訴人安田敏を頼って岐阜県海津町に行きました。9月からライスセンターの条件の良い仕事を12月までするという話で、山下工務店でアルバイトの仕事をしていました。

 ライスセンターの仕事の話がややこしくなったこともあり、金沢に戻ったのが8月の20日すぎのことで、戻ってすぐの25日ころからは、金沢市場輸送で市内配達の仕事をすることになりました。

 たまたま金沢市場輸送のことを思いつき、電話を掛けて藤村さんと話をしたことが2度目の入社のきっかけでした。違反点数を戻すことと、市内配達の仕事をしながら大型免許の試験を受けることが目的でした。

 これから金沢で仕事を探そうとした時に、金沢市場輸送のことが頭に浮かんだというのも、被告訴人安田敏のことがきっかけで、それがなければ、金沢市場輸送に電話をすることもなかったように思います。

 それというのも、前年の昭和60年の8月の終わり頃に、被告訴人安田敏が金沢市場輸送で氷の市内配達の仕事をしていると聞き、中西運輸商の4トン車で金沢市場輸送に事務所の前まで行ったとき、蛸島の北浜太一さんの弟に、やめて岐阜に仕事に行ったところだと聞かされた、ことがありました。

 さらにその年の12月の中頃になってからは、岐阜でのライスセンターの仕事を終えてきた被告訴人安田敏が、ちょくちょく私の東力のアパートに顔を出すようになりました。ライスセンターの仕事は出稼ぎ手帳ももらえるもので、しばらくは失業保険がもらえるとも話していました。

 その前、被告訴人安田敏と会ったことがはっきり記憶にあるのは、昭和58年の12月のクリスマスの日のことで、他2人と4人で寺町の家族風呂に行ってから、片町・香林坊を被告訴人安田敏の車でドライブしたことです。薄っすらと白い雪が積もる中100キロを超える猛スピードで運転をしていました。

 タイヤも普通タイヤだったので、無言のまま猛スピードで車を走らせる被告訴人安田敏に危機感のようなものを感じました。その時に被告訴人安田敏が繰り返し車の中で流していたのが、次の曲です。何ヶ月か前、YouTubeで調べて、その曲を聴いていました。

素敵にジングルベル~'Cause It’s Christmas 伊藤さやか - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ZrE3ENOpaW4

 前回に調べたときの情報で、同じ昭和58年の12月にリリースされた曲だと知りました。当時はCDが出ておらずまだレコードの時代でしたが、被告訴人安田敏は販売間もない曲を流していたことになりそうです。

 その昭和58年の8月の終わりか9月の初めから11月の10日頃までの間、私は金沢市観音堂の被告訴人安田敏のアパートに居候をしていました。仕事はしておらず、宇出津に帰ることもありましたが、古い木造のアパートの一階で、風呂もなかったと思います。たまり場の一つとなっていました。

 その後、被告訴人安田敏は中央防災という消化器売りの仕事に没頭するようになり、出張と称する県外への仕事によく出かけるようになり、顔を合わせることも少なくなったのですが、金沢市増泉一丁目の野町に近いところに、新しいワンルームのアパートを借りるようになりました。

 その辺りは、石坂(いっさか)と呼ばれる地域で、昔の売春街の趣が当時も残っていました。野町の辺りは西の茶屋街と呼ばれる歴史のある場所にもなっていましたが、その野町のあたりに被告訴人竹沢俊寿の家があると聞いていました。住宅地図などで調べたこともないので、正確な場所もわかりません。

 中央防災の会社もその近くの雑居ビルにありました。増泉一丁目の住所になるのだと思いますが、大通りの野田専光寺線を挟んで向かい側は白菊町で、となりが中村町や千日町、その辺りは暴力団事務所が多く、暴力団の関係者も多く住むという、いくらか物騒な地区でした。

 初めに消化器売りの仕事をしたのは私の方が先で、私が被告訴人安田敏を紹介したというかたちでした。輪島の人物にガソリンスタンドで声を掛けられたのがきっかけでしたが、当時27歳か28歳と聞いていた中央防災の社長も、輪島市の出身で建設会社の息子とも聞いていました。

 消化器売りの仕事というのは詐欺まがいの訪問販売で、当時は社会問題化され、次第にやりにくくなっているという状況でした。元は同じ金沢市内の神田か新神田にあった日本防災が一つで、中央防災の社長もそこから独立したと聞いていました。

 私は翌年の昭和59年の1月の中頃から、金沢市場輸送で4トン車の長距離トラックの運転手の仕事をするようになりました。この長距離トラックの仕事を始めてからは、被告訴人安田敏と連絡をしたり、会うこともなかったように思います。

 当時は携帯電話などなかった時代で、連絡というのも直接訪問するというのが少なくありませんでした。私の東力のアパートには固定電話がありましたが、被告訴人安田敏の方は固定電話ももっておらず、アパートも不在が多かったので、連絡というのも彼の方からという一方的なものだったと思います。

 そのうちだいぶん経ってから、被告訴人安田敏が再びシンナーに手を出し、頭がおかしくなって再び松原病院に入院したという話を聞きました。この2度目の入院というのは期間も短かったようで、後日被告訴人安田敏本人も、シンナーに手を出し異変を感じたので、自分から病院に行ったと話していました。

 そういう話を耳にしたもの昭和60年に入ってからだと思います。松原病院を退院したという話と似たような時期に、被告訴人安田敏が金沢市場輸送で仕事を始めたという話を耳にしました。

 長距離ではなく市内配達の仕事をしていると聞きましたが、金沢市場輸送で市内配達の仕事というのも初めて聞く話でした。もっとも氷の配達をしているとも聞き、それは昭和59年の夏に、長距離の仕事の合間に交代でやらされていた仕事でした。100キロほどの氷の塊を運ぶ仕事でした。

 その氷の配達の仕事の方に意識が行き過ぎていたのかもしれないのですが、金沢市場輸送が青果物などの市内配達の仕事を始めたというのも、同じ時期だったかもしれません。この市内配達の仕事というのが、市場急配センターの前身となるのですが、当初は複数の運送会社が参加するものでした。

 その市内配達の経緯というのも、中央市場の仲買の要請によって始まったように聞いていました。私がそれを始めたのは先程書いた昭和61年8月25日頃のことで、その頃にはすっかり定着し、他に石川日通、小林運送など4社ほどが一台ずつの2トン車と運転手で参加していました。

 大半は金沢市場輸送のトラックで、その現場責任者になっていたのも金沢市場輸送の高田という人物でした。高田は会社のお金を持ち逃げしたような話もありましたが、富山の右翼団体が押しかけてきたことは、その場に居合わせたのでよく憶えています。本恒夫はずいぶん余裕の態度を見せていました。

 その本恒夫が運転手をやめ、配車係をするようになったのも昭和61年の12月頃のことで、それまで配車係をしていた藤村さんの長期の入院がきっかけで被告訴人竹沢俊寿に頼み込まれたという話でした。そして、同じ頃に入社したのが、被告訴人池田宏美と被告訴人梅野博之の二人です。

 当時被告訴人池田宏美は池田とは名乗っておらず、吉村という名前ではなかったかと思うのですが、再婚で名前が変わったとも聞きました。本人に後日聞いた話では、4回目の結婚と話していたように思います。四国の方にも長く住んでいたと話していました。

 被告訴人安田敏が初めにシンナーで発狂したのは、昭和56年の12月か昭和56年の1月頃の話でした。早朝の松波駅で保護され、一週間ほど昏睡状態で生死の境をさまよったという話も本人から聞いていました。

 昭和56年の11月には、七尾市家庭裁判所の待合室で、偶然、被告訴人安田敏と会うことがあり、彼は母親と一緒にいました。私の方も母親と一緒だったのかもしれません。ちょうど試験観察が切れる前のことで、金沢の調査官が七尾市まで出向いてくれて、面会をしたのです。

 その時にみた被告訴人安田敏は、とても不健康で異様に見えました。そのうちしばらくして、シンナーで発狂し、松波の町営住宅の隣人の家に上がり込み、就寝中の夫人の首を締め上げたとか、そのあと外に飛び出て、「カラスが呼んでいる」と叫んだとか話を聞きましたが、真偽のほどは不明です。

 その後、春先でまだ雪が残っているような時期だったと記憶にあるのですが、当時は積雪量も多く雪解けというのも遅かったように思います。同級生の友人3人と金沢の兼六園を散策し、そのうちの一人が、近くの松原病院に被告訴人安田敏がいるはずなので、面会に行ってみようと言い出したのです。

 金沢の松原病院の住所は石引だと思いますが、金沢大学附属病院のある小立野とも近く、同じ小立野には昭和56年8月28日から26日ほど入っていた金沢少年鑑別所の古い建物もありました。平屋で漫画がそのままリアルになったような建物でした。隣にあるのは聾学校とも聞いていました。

 Googleマップで調べてはいませんが、金沢の松原病院の建物はまだそのまま残っている可能性が高いと思います。高層でずいぶん目立つ建物でとても近代的な建物に見えていました。大通り沿いにある建物で、突き当りが兼六園の敷地にもなっていました。

 松原病院といえば精神病院の代名詞というぐらい有名でしたが、金沢市内で他に精神科を看板にした病院というのは見た記憶もありません。精神科のクリニックのことは拘置所にいるとき、北國新聞の連載コラムで院長の記事を見て、初めて知ったという記憶があります。

 小立野の辺りというのは金沢市内でも高台になっていて、そこに高層の松原病院があったので、ひときわ目立つ存在感がありました。白い巨塔のイメージとも重なるところがありました。

 何度も繰り返し書いていると思いますが、私が羽咋市のアパートに住んでいたのは2009年3月15日まででした。そのまだ羽咋市のアパートに住んでいた頃と、ふたしかな記憶とはなっていますが、山口成良金沢大学教授についてネットで調べたことがありました。

 その時点で、山口成良金沢大学教授は金沢の松原病院の医院長ということになっていたと思います。何か勲章を受けたという情報や、山歩きを趣味としているような情報もあり、登山を楽しむような明るい笑顔の写真も見たように憶えています。

 その最初の検索のときにも見ていたのかもしれないですが、山口成良金沢大学教授は七尾市の出身という情報で、私の母親と同じ昭和4年の生まれとなっていたとも思います。

 なぜか私はそれを初めに知ったとき、山口成良金沢大学教授の出身地を七尾市でも富山県との県境に近い場所とイメージしました。これは同じ頃にテレビで知った羽咋気多大社の鵜様の神事と重なっているのかもしれません。鵜を確保する場所が決まっていて、それが県境に違い場所となっていたからです。

 最近になって、そのようなイメージの記憶に間違いがあったことに気が付きました。福島県大野病院事件のことですが、私はモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のブログで知った頃から、会津若松市の近くだとイメージしていたのです。実際は海沿いの双葉郡大熊町と知ったのです。

 あまり深く考えずに、山口成良金沢大学教授のことを考えていた証左だとも思いますが、それほど徹底して調べることもありませんでした。もっともネットに出回っているような情報は数に限りもあって、それほど役に立つ情報はないだろうという諦めのようなものもあったかと思います。

 その後、山口成良金沢大学教授について再びネットで調べたことがあったのですが、それも2,3年前になるのかと思います。そのときに発見したことは、山口成良金沢大学教授の助手をしていて私の精神鑑定書にも名前のある人物が、七尾市の大きな病院に働いているという情報でした。

 七尾市の病院と言えば、恵寿病院が大きくひときわ目立つ存在でもありますが、その時ネットで調べた情報では、七尾警察署の近くにある大きな病院でした。七尾警察署のある通りというのも七尾市では商業地の一つですが、そこから少し離れた場所にあることを地図で見ました。

 山口成良金沢大学教授はやや珍しいと思えるほど小柄な体型でしたが、後に行列をしたがえて巡回している姿を見た時は、まるで大名行列の殿様のように見えるほど、険しい表情にともなう威圧感のようなものがありました。

 閉鎖病棟の入り口には小部屋があって、そこで夕方に面談のようなものを受けたことがあったのですが、なにか一つの私の言動に気に障ることがあったのか、とても警戒したような表情を垣間見せたことがありました。取り調べにおける真剣勝負にも似ていたのかと思います。達人の所為にも見えました。

 私が中学生の頃、空手バカ一代という漫画があって、テレビアニメにもなっていたかと思いますが、主人公は極真空手大山倍達という人物で、ネットの情報では作り話が多かったともなっているのですが、昭和の時代はカリスマ的な存在でした。

 その極真空手大山倍達が生涯に一度だけ負けた人物がいるという話で、それが中国拳法の達人の老人という話になっていました。よくはわからなかったのですが、そのに似たような雰囲気が、山口成良金沢大学教授の全身から沸き上がるように見えたのは事実です。

 パチスロ北斗の拳の演出にあるオーラの出現に似ている、とも今は思います。威嚇で身構えていたのかとも今は思いますが、それで魔法を掛けられたように長期間に渡り判断を誤ってきたのも事実であって、木梨松嗣弁護士のそれに似たものを感じます。今は、それを放置した業界の問題性に切込みたいです。

 達人というのは、その道を極めた実力者という意味もあるかと思いますが、普通の人が到達し得ない未知の領域に達した人という見方も出来るかと思います。未知の領域は、知見も経験もなく想像するのも難しい世界かと思いますが、その好例の一つが高島章弁護士(新潟県弁護士会)でもあります。

 高島章弁護士(新潟県弁護士会)に関しては、人をくったという表現が相応しいという意味で、被告訴人竹沢俊寿によく似ていると、ずっと前から考えてきました。被告訴人竹沢俊寿本人も法律には詳しく修行のような学問をしたような話も聞いていました。司法書士の資格があるという話もあるぐらいです。

 被告訴人竹沢俊寿の告訴事件との関わりというのもよくわからない部分が大きいのですが、私自身が身を持って感じたことは、福井刑務所を出所後の被告訴人竹沢俊寿のあせりです。彼はどうしても私を取り込み手なづけたいと考えていたようで、それが安心感につながると考えていたようです。

 昭和63年頃に、金沢市場輸送の大型運転手の武田さんから被告訴人竹沢俊寿の還暦祝いという話を聞いたので、そから計算すると生きていても現在は90歳近いということになりそうです。被告訴人安田敏からは多分最後に会ったとき、とうの昔に死んでいる、ということを捨て台詞のように言われました。

 被告訴人竹沢俊寿は、重度の糖尿病を患っているとも言いながら、演技でことさらにいつ死んでもおかしくない状態であることを印象づけていたふしがあります。つねに何かに追われるような精神状態で、あざむくことで安心感を得ていたようにも考えられます。

 私からみれば謎の多い人物でしたが、運送会社の社長、会長として交友も広かったはずで、より精度の高い情報というのは他にあるものと考えています。暴力団の組長をしていたという話もありました。土建屋をやっていたという話も、金貸しをしていたという話もありました。

 福井刑務所では、同室となった富山の人に、北朝鮮から若い頃に来たという話も聞きました。20代とも聞いたように思います。年配者によくあるクセの強い金沢弁を話していたので、20代以降に身につけたとも考えにくいのですが、それが出来たのであれば、それだけ優秀な人物ということになります。

 優秀、有能な人物と言えば、以前は弁護士がその代表格でした。司法試験は最難関の国家試験と言われ、平成4年ころでも司法試験の合格者数は年間500人台ということになっていたはずです。

高島章 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E7%AB%A0

 高島章弁護士(新潟県弁護士会)の年齢を確認しておきたいと思って調べたのですが、上記のページには生年月日や年齢につながる情報は掲載がなく、司法修習生の期もないと思ったのですが、もう一度見直すと、45期とあり、平成5年の弁護士会登録という情報も書いてありました。

 この司法修習生としての修習は、昭和43年生まれの小倉秀夫弁護士が同期で、同じ新潟修習であったという情報をだいぶん前から得ています。頭髪のこともありますが、私より年下の小倉秀夫弁護士よりは、かなり年上に見えるということがあるので、今回ははっきりした年齢を確認したいと思いました。

 ネットの地図でみると高島章弁護士の法律事務所はかなり年代物で、場所は海に近くやたらと橋があるので出島のようになっているのかと思ったのですが、地図の範囲を広げると信濃川の大きな川沿いで河口に近いということがわかりました。考えてみると新潟市内の地図は余り見たことがなかったです。

 長距離トラックの仕事でも新潟市内の荷降ろしというのは少なく、定期的によく行ったのは魚市場でしたが、それもほとんどが夜中の時間だけの通行でした。もっと港に近い辺りにも行ったことがあるのですが、とても大きくて歴史のある町並みという印象を受けました。

 新潟県というのは、以前北陸の一つと数えるのを見たことがあり、福井の越前から新潟の越後まで奈良時代だかの越の国の歴史があるものと考えられますが、同じ日本海側でも金沢市などとは比較にならない大きさで人口も多く、東京高裁の支部があるように関東圏に属するように見ています。

 新潟市内というのは、名の知られた観光地もなく、昔、新潟ブルースという曲に出ていた万代橋という名前を知っているぐらいでしたが、金沢港の周辺とは比較にならない規模と活気が感じられる町並みだったという記憶が残っています。

 地図をみると全てが信濃川の河口で、港というのも見当たらないのですが、新潟港といえば、万景号という北朝鮮との定期船がよくテレビに取り上げられていました。拉致被害者の問題が活発だった時期にもなると思いますが、制裁の一環として就航が取りやめになりました。

 そういえば、2,3日前にTwitterの高島章弁護士のプロフィールを見ていて気になったのですが、「朝鮮総聯新潟県本部顧問弁護士」という部分があります。

 そういえばと思い出したところもあるのですが、朝鮮総連の問題に関しては、落合洋司弁護士(東京弁護士会)も関わったのを見た記憶があったような気がします。同じ頃にはブログで、元札幌高検検事正の刑事裁判の弁護人に選ばれたような書き込みがあったと記憶しています。

落合 弁護士 from:BarlKarth - Twitter検索 http://bit.ly/2pS9pwk

 高島章弁護士が落合洋司弁護士(東京弁護士会)と一緒に仕事をしたような話があったことを思い出したので、上記の検索で調べてみました。それらしいものが一つだけ見つかりましたが、これだけだとどんな事件かもわかりません。

  • ツイート:BarlKarth(高島章(弁護士)):2016/12/07 23:26: https://twitter.com/BarlKarth/status/806505117566414848

    落合弁護士との共同弁護事件。本日は、アンドロメダ帝王の異議を3発くらいお見舞いした。異議自体が容れられなくても、立証趣旨を限定する念押しをするのは重要であった。

 他に気になったのは、次のツイートでの高島章弁護士の小倉秀夫弁護士の評価です。「南洋から泳いで上陸した土人弁護士」と書いています。そういえば、前に見かけたかも知れないと思ったのですが、見ていてもすっかり忘れていました。

  • ツイート:BarlKarth(高島章(弁護士)):2011/07/22 02:35: https://twitter.com/BarlKarth/status/94098110095167488

     「しがない弁護士」と言えば,落合洋司,「一介の田舎弁護士の分際」と言えば,高島章「南洋から泳いで上陸した土人弁護士」と言えば,小倉 秀夫,「○○に強い弁護士」と言えば岡野武志,「本名かどうか疑わしい弁護士」といえば白鳥玲子。

“総連” from:yjochi - Twitter検索 http://bit.ly/2qDLEuL

 上記で調べると、次の3つのツイートが出てきました。あやふやな記憶でいい加減なことも書けないと、確認のために調べたのですが、朝鮮総連の裁判に関与していたことは間違いがなさそうです。

 そういえば、落合洋司弁護士(東京弁護士会)は元公安検事ということを、一つの宣伝材料にしていたかと思います。それで朝鮮総連からご指名で仕事が舞い込んだのだとすれば、それはそれで考えさせられることですが、高島章弁護士は落合洋司弁護士(東京弁護士会)を高く評価しているようです。

  • ツイート:BarlKarth(高島章(弁護士)):2015/11/13 17:09: https://twitter.com/BarlKarth/status/665079047236382720

    フェイスブックの個人情報をリスト化して「晒した」――プライバシー侵害にあたる?(弁護士ドットコム) - Yahoo!ニュース https://t.co/Wx4YeMkIzQ #Yahooニュース 人格円満な落合先生の解説。おそらく法律家の標準的見解だろう。

  • ツイート:BarlKarth(高島章(弁護士)):2014/05/19 17:19: https://twitter.com/BarlKarth/status/468304915811426304

    落合洋司弁護士,刑法学会分科会でとても良い質問をしていたのだが,変な事件に巻き込まれて迷惑だろうなぁ。ハードディスクを指さして,「これが送られてきたものです」という写報とか認定領置とか。

 ないだろうと思いながら、落合洋司弁護士(東京弁護士会)がTwitterで高島章弁護士に言及しているツイートを次に探してみました。いくつか見覚えのあるツイートがありました。歴史にもからんだ興味深いものがあったので、それをご紹介します。忘れていたツイートの一つです。

高島 弁護士 from:yjochi - Twitter検索 http://bit.ly/2qDSYXj

 落合洋司弁護士(東京弁護士会)といえば、そちらも地域性が高く、広島県の出身であることが落合洋司弁護士(東京弁護士会)を知る人には広く知られているはずで、先ごろは自民党からの出馬という物議を醸した問題もありました。日頃のツイートを見てきてあり得ないことだと思ってはいましたが。

 落合洋司弁護士(東京弁護士会)のタイムラインを確認したところ、5月7日4時34分の現時点でフォロワー数は35940となっていました。この数値は騒動前より増えたように感じました。36000に近づいていますが、この大台に近づいたのは初めて見るような気がしました。

  • ツイート:yjochi(落合洋司 Yoji Ochiai):2017/05/07 01:02: https://twitter.com/yjochi/status/860887529700040705

    首相ビデオメッセージでは、さらっと言っているけど、改憲派の多くが切られることになる、重大なメッセージも含んでいたと見るべきだろう。既に気づいている人もいるが。

 上記が2つ前となっている落合洋司弁護士(東京弁護士会)の最新ツイートです。このところ穏当なツイートが多くなったとは感じていましたが、これはなかなか意味深なところがありそうです。実際はどうか知りませんが、もっともらしい意見には見えます。

 いずれにせよ、落合洋司弁護士(東京弁護士会)は理解を超えた言動のある弁護士の一人で、そのことが先の自民党出馬の問題に伴い、再確認が出来ました。けっこうな数過去のツイートの発掘も行われていて、こんなことまでツイートしていたのかと、驚きを深めるものがありました。

 高島章弁護士に関しては、新潟生まれであることも確認はしていません。確認できるような情報を見たことがないからです。小倉秀夫弁護士のツイートで新潟修習だったことは分かっており、修習後も修習地で弁護士として生活する例は、北海道の岩田圭只弁護士、中村憲昭弁護士に見ています。

 福岡市内で開業した向原栄大朗弁護士も、同じ九州の司法修習が縁で福岡に定住するようになったという話を書いていたかと思います。たしか、鹿児島修習だったように思いますが、修習のときの人間関係からそういう流れになったという話だったと思います。元は大阪府だったとも記憶にあります。

 高島章弁護士の出身地がとても気になってきましたが、私の中では新潟というイメージがすっかり定着していて、それが新潟市民に向き合いどうなのかという気持ちももたげて来ました。新潟市内には金玉神社があるらしく、それにも高島章弁護士はずいぶんなこだわりを発言していました。

アンドロメダー - Wikipedia http://bit.ly/2qEh9Vr

 さきほどの落合洋司弁護士(東京弁護士会)との共同弁護事件とかいうツイートに、アンドロメダという聞き慣れた言葉があったので、アンドロメダが何を意味するのか調べてみました。上記のWikipediaには、ギリシア神話のことが書いてありましたが、宇宙のこととばかり思っていました。

 アンドロメダ型神話の例として、「スサノオヤマタノオロチ退治(日本)」とあるのも意外な発見でした。

 「アンドロメダ型神話」の定義が理解できなかったので、読み直しをしたのですが、「英雄が、強力な怪物と戦って女性を救い出すという神話の定型の一つ。ペルセウス型神話」などと書いてありました。

 「スサノオヤマタノオロチ退治(日本)」で救出された女性というのは奇稲田姫命のことだと思います。なぜか京都の八坂神社では「櫛稲田姫命」と書くらしくその点も気になっていますが、人身御供の生贄とされかけた女性ということで、七尾市の青柏祭の歴史の一つにも似ています。

 いまひとつピンと来なかったので、「アンドロメダ 帝王」に検索を変えたところ、意外な発見がありました。ある程度理解の出来る由来となっていました。憲法学の芦部という名前は知っている人物が、きっかけで論戦となったようです。次のまとめサイトで知りました。

直弟子はアンドロメダの帝王 - Togetterまとめ https://togetter.com/li/419577

 現在の高島章弁護士のプロフィールは、「ろくでのなし子の直弟子第3号(ろくでなし夫) 」となっており、だいぶん前から同じだと思いますが、ここにも「直弟子」という言葉が含まれています。まんこアートの芸術性を主張し有名になった女性を、女神のように崇めているとも見えます。

 アンドロメダというのは宇宙戦艦ヤマトシリーズに出てくる架空の宇宙船という情報もありました。本当にアンドロメダ星雲が存在するのかと考えたこともあったのですが、今日まで調べて確認をするという行動にまでは至らずにいました。

 以下は、これまで高島章弁護士(新潟県弁護士会)のツイートを記録として保存した動画になります。

2016年12月29日17時31分44秒の記録_野田隼人弁護士と高島章弁護士の関係性 https://www.youtube.com/watch?v=Gk_WZVgqP-Q

2017年02月27日08時46分42秒/記録資料/高島章弁護士(新潟県弁護士会)の金玉踊り、金玉神発言検索・新潟日報社上越支局報道部長の件 https://www.youtube.com/watch?v=QG_FSvyTWjI

2017年02月27日10時04分46秒/記録資料/高島章弁護士(新潟県弁護士会)の新発田市強姦致死・連続女性不審死事件に関する検索記録 https://www.youtube.com/watch?v=3zf9LZ8Z9-s

2017年03月07日21時21分52秒/記録資料/高島章弁護士(新潟県弁護士会)のTwitterタイムライン https://www.youtube.com/watch?v=3yz2s-N9aW0

2017年04月21日06時33分31秒/記録資料/野田隼人弁護士(滋賀弁護士会)と高島章弁護士(新潟県弁護士会)のツイートのやりとり https://www.youtube.com/watch?v=WZXO2d7Jv44

2017年05月05日16時32分41秒/記録資料/高島章(弁護士) @BarlKarth 法律の世界・特に刑法の世界で、「常識的な判断を」は禁句といってよい。 https://www.youtube.com/watch?v=NChqFJc3B94

 いろいろと不思議というかミステリー過ぎて、遺跡を発掘する作業をやっているような気分にもなってきます。キリスト教の洗礼を受けたとも紹介しているので、もっとも神に近い存在の弁護士とも考えさせられて来たのですが、より深刻に考えさせられるところが大きいです。

 平成11年の7月か8月で、8月12日に安藤健次郎さんのことで金沢中警察署に逮捕される前のことですが、永久開発の派遣の仕事で、遺跡の発掘の現場に行ったことがありました。富山市でも滑川市に近く、住所も滑川市と聞いていたかもしれません。けっこう大きな遺跡の発掘現場でした。

 時刻は10時48分になっています。9時30分過ぎに目が覚めました。起きてすぐ、柏のことが頭に浮かんできたので、それを書いておきたいと思います。青柏祭のお話ですが、最近になって初めて知った情報です。昨年の方がよく調べたと思うのですが、不思議と目にすることがありませんでした。

七尾市の青柏祭のルーツは、けっこう「もののけ姫」ぽかった(´Д`)? - sammbardaikuのブログ http://www.sammbardaiku.com/entry/2016/04/23/013145

 他のページにも同じようなことが書いてあったと思うのですが、上記のページもブラウザの履歴から探し出すのに少々手間取りました。次のように書いてあるので、以下に引用をします。

「そもそもね~「青柏祭(せいはくさい)」って、柏(かしわ)の木の葉っぱから来てるのよね。」

へっ!? あの柏餅のかしわですか?

「そうよ…。柏の木の葉っぱって枯れてしまっても、次の新しい若い葉っぱが生えてくるまで落ちないのよ。 なんだか命の繋がりを感じない?」

な~るほど…それって子孫繁栄、縁起のいい葉っぱってわけですか…。

 柏餅と言えば、こどもの日の定番和菓子だと思います。先日、Aコープ能都店で見かけて一つ100円ぐらいだったので、買おうかしばらく迷ったのですが、買わないで帰りました。

 和菓子と言えば、数日前に小倉秀夫弁護士のTwitterのタイムラインで、気になるツイートを見かけていました。その小倉秀夫弁護士ですが、今朝になっていよいよ小倉秀夫弁護士らしいツイートが目立ち、ツイートの数も徐々に増えてきたようです。

 前に見た時は気が付かなかったのですが、ひところ法クラのツイートで話題になっていた。次の問題を小倉秀夫弁護士らしく皮肉ったものと考えられます。

【道徳教科書検定】「パン屋→和菓子屋」などと文科省が書き換え指示? 誤解が広がった理由とは…(1/3ページ) - 産経ニュース http://www.sankei.com/life/news/170401/lif1704010068-n1.html

文部科学省が道徳の教科書検定で、郷土愛不足を理由に「パン屋」を「和菓子屋」に書き換えさせた-。小学校で平成30年度から使用される教科書について、国や郷土を愛する態度を教えるため、文科省が修正を指示したとの疑念がインターネット上で拡散、文科省に抗議の電話が相次いだ。

 「文科省が修正を指示したとの疑念がインターネット上で拡散、文科省に抗議の電話が相次いだ」という部分は、今回読んで初めて理解が出来ました。要は文科省に不信感を抱いたということで、森友学園問題における財務省への嫌疑、批判とよく似た構造になっているようです。

 さきほどの青柏祭の記事には、次の記述もありました。

この話にどんな意味があるのか…。 実は、何らかの実話を「昔話」にしたてたのかもしれぬ…。しかし、どうあれ七尾には「青柏祭」を人生の中心に据えている人も少なくない。

実際、江戸時代から明治に代わる年に…時代の混乱の中で「青柏祭」が行われなかった訳だが…

その責任を負ってなのだろうが…

山王神社の神主様が「切腹」したという話があるくらいやからな…。

 七尾には和菓子に縁があって、私が大地主神社のことを知ったのも、「ちゃんぺ饅頭」がきっかけでした。女性器をかたどった和菓子ということですが、それまで生贄に捧げていた人身御供の娘の身代わりとして、チャンペ饅頭が出来たという話でした。

 能登には「チャンペ祭り」と呼ばれるものはあるのですが、「ちゃんぺ饅頭」というのは、その時初めて知りました。他に検索しても情報は見つからず、情報源はラジオ番組を録画したYouTube動画のみでした。

 Googleの検索で、「【眞鍋かをり】下ネタ支持多数「ちゃんぺ饅頭」応援! - WAPMON」という痕跡のようなものは残っているのですが、本体はリンク切れとなっている様子で、YouTubeの動画も削除されたのか、存在が確認できなくなっていました。

辻口博啓 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E5%8F%A3%E5%8D%9A%E5%95%93

 七尾市の出身で全国的で名の知られた人物と言えば、上記の辻口シェフですが、その辻口シェフがテレビで紹介されているのを初めて見た数年前、実家が和菓子屋で18歳の時に倒産したという話が最も印象的で、誰にでもありうる、周囲にも似たことがあったという身近にも感じる問題でした。

 上記のWikipediaで、倒産した実家の和菓子屋が「紅屋」という店名だったというのは初めて見た情報ですが、紅屋という和菓子屋は能登で見かけたことはなく、個人的には寿司店をイメージしてしまいます。

 七尾市で和菓子屋を見かけたという記憶もありません。七尾市の近くで以前は七尾市ではなかった田鶴浜にある竹内という会社は「みそまんじゅう」で有名で、今でもときどきテレビでCMを見かけることがあります。国道沿いの目立つ場所に店舗もあります。

 ほかに能登で名物の和菓子と言えば、「いも菓子」というものがあります。宇出津でも看板を出して売っていましたが、珠洲市の飯田の店が大きいようです。若く市長になって話題となった現在の珠洲市長の実家だと聞いたこともあります。

 宇出津のいも菓子の店には、寄付金をもらいに行きました。3人で寄付金集めに回っていて、宇出津小学校に封筒の案内書面を渡しに行って戻ったところ、他の2人が、その和菓子店の店の中にいたのです。事務所開きの当日だったので、4月7日だったと思います。

 宇出津小学校には、玄関からなかに入り、職員室まで行きました。昭和52年に卒業したのだと思いますが、その後、学校の中に入った記憶がなく、少なくとも平成になってからは一度も入ったことがなかったように思います。6年生になったとき、新校舎となった建物がそのまま残っています。

 いも菓子には白あんが入っていて、子どものころはそれが嫌いで皮の部分だけをむいて食べていたという思い出があります。普通のアンコも好きではなくたい焼きもアンコを捨てて食べていました。あんこを抵抗なく食べるようになったのは、平成4年に拘置所の生活をするようになってからです。

 他にも好き嫌いが多く、酢の物なども嫌いでしたが、まったく抵抗なく食べ残しをして、それを平気で捨てていました。拘置所や刑務所の生活で、そのような好き嫌いもほとんどなくなり、食べ物を捨てるという行為もほとんどしなくなりました。

 意外に思う人もいるかもしれませんが、拘置所や刑務所では残飯での廃棄が多く、それを注意されるようなことは一切ありませんでした。しかし、ブンセンと呼ばれた名古屋の分類センターでは、食べ残しは許されず、サンマの骨まで強制的に食べさせられたという話を聞いていました。

 もう10年ほど前になるのかと思いますが、ネットでそのブンセンについて調べたところ、情報はほとんど見つかりませんでした。25歳か26歳までという制限で、服役前にブンセンに送られ、軍隊のような過酷な訓練を受けると聞いていました。その経験者が福井刑務所にけっこう来ていました。

名古屋刑務所の地獄の分セン(分類センター) - 愛知不良・族掲示板|爆サイ.com東海版 http://bakusai.com/thr_res/acode=5/ctgid=131/bid=1240/tid=1495206/

26歳未満や性犯罪の受刑者が各刑務所に振り分けられる前に通る所です! 名古屋刑務所の分センは日本一きついで有名だそうです。 ちなみに僕は25歳の時に分センを通ったのですが少し態度が悪かっただけでスクワット3日間で一万回やらされました。 今までで一番辛かったかもしれません。 今となれば笑い話ですが(笑) 分セン通った人がいましたら その時のエピソード聞かせて下さい。

 調べたところ上記のページがみつかりました。2011年4月の投稿日となっているので、驚きました。それより数年前に、同じ名古屋刑務所で刑務官による受刑者の虐待死があり、大きな社会問題となって、革手錠の使用禁止にもなったはずです。

名古屋刑務所受刑者放水死事件 - Enpedia http://bit.ly/2qEqtbE

 時期を確認するため調べ、見つけたのが上記のページです。Wikipediaに似ていますが別のサイトのようです。2001年12月14日の事件発生と書いてあります。平成13年の12月と言えば、私は31日の朝に満期で釈放されたので、まだ服役中に起きた事件だったということになるようです。

 よく考えてみると問題の性質上、事件の発生がそのまま表沙汰の報道につながったとは考えにくいのですが、氣になった問題発覚の経緯などはこのページに見当たらず、日付がみえるのは2005年11月4日の名古屋地裁の判決です。

 他に、弁護団の再審請求を2014年3月27日に名古屋高裁石山容示裁判長が棄却とも書いてありますた、2014年と言えばつい3年ほど前のことで、石山容示裁判官が、その時点で高裁の裁判長だったというのも、まったく意外な事実の発見でした。

 私自身、石山容示裁判長の名前で再審請求を棄却されたことがありました。以前経歴を調べたところ、被告訴人小島裕史元裁判長と似ていて、陪席として合議体の裁判を一緒にやったという判例もあったかと記憶しています。どちらも戸塚ヨットスクール事件に関与した経歴があったとも記憶にあります。

 石山容示裁判長は、一度法廷で顔を見たことがありました。金沢地方裁判所に用事でいったとき、刑事裁判の傍聴をしてみようと、法廷のドアを開けたのですが、テレビで見ている石山容示裁判長の顔が見えて、すぐにドアを閉めてなかに入らなかったということがありました。

 金沢市北安江の借家で生活していたときだったのは間違いありません。その間の再審請求として記憶にあるのは、平成11年の2月の終わり頃に届いた再審請求棄却の決定書でした。金沢市内ですが、決定の日付が1,2日ほど前になっていたという記憶もあります。

 金沢市木越の辺りから、夕方暗い時間に、その決定書のことで、安藤健次郎さんに電話をしたことも、これまでに作成した書面(下書きで終わり未提出のものを含む、以下同じ)で何度か書いてきたと思います。以前の方が記憶も鮮明で、現在はいくらかその記憶の減退も感じています。

 石山容示裁判長のことで思い出したのですが、だいぶん前に小川賢司裁判官について大きく取り上げるつもりでありながら、それも取り掛かっていないことに気が付きました。

 石山容示裁判長が3年ほど前、名古屋高裁の裁判長をしていたということは、現在も高齢などの原因によらず心身に故障がないということになりそうです。もうずっと前に引退し、高齢ドライバーのような認知症の可能性も出る状態にあるのかと、なんとはなしに思い込んでいました。これは朗報です。

名古屋刑務所リンチ殺人事件 - NAVER まとめ https://matome.naver.jp/odai/2142847823930192801

2001~02年、刑務官らが集団暴行で受刑者3人を死傷させたとされる刑事事件。革手錠付きベルトで腹部を締め、受刑者2人が死傷したとされる「革手錠事件」と、肛門(こうもん)に消防用ホースで放水して受刑者1人を死亡させたとされる「放水事件」とがある。

2004年3月31日、名古屋地裁(石山容示裁判長)は、懲役2年執行猶予3年(求刑・懲役2年)の有罪判決を言い渡した。判決では、2002年9月の革ベルトにより受刑者が死亡させたた公務員暴行陵虐致傷罪と、2001年12月に起きた放水死事件での公務員暴行陵虐致致死ほう助罪について認定。

 忘れていたことを思い知らされることが書いてありますが、革手錠で受刑者2人が死傷したとあり、それは放水死とは別の事件のようです。

 自分自身が、平成5年9月7日、被告訴人小島裕史裁判長から控訴審有罪の判決を受け、金沢刑務所に戻って拘置舎に戻る前に問題を起こし、そのまま保護房に収容され革手錠をつけられるという経験がありました。

 保護房というのはユニットバスのタンクのような部屋で、放水での掃除がしやすそうなつくりになっていて、着用させられたズボンというのも、しゃがむとすぐに尻が出るという特殊なズボンでした。幸い私は収容中、大便をしなかったので、放水のような洗浄を受けることもありませんでした。

 私の頭の中で保護房、革手錠、放水による洗浄がセットになっていて、単独の一つの事件であったと、今日まで思い込んでいました。テレビでの報道を見ていた頃というのも、プログラムの勉強やサーバの設定管理で何かと忙しく、じっくりとニュースを読むということも余りなかったと思います。

 革手錠で腹部を圧迫され死亡したというのも、あらためて驚いた話です。私自身、49時間ほど革手錠をつけられていましたが、刑務官が数人がかりで外そうとしても外れないほどきつく締め上げられていて、警備隊長の人が、切れと指示を出した拍子に、外れたということがありました。

 その革手錠もきつかったですが、9月7日に判決を受けるまでも、拘置所で悶々とした日々を過ごし、それが小島裕史裁判長の判決で爆発しました。大変な思いをしましたが、保護房から出された後は、しばらくの間、実に晴れやかな清々しい気持ちで生活をすることが出来ました。

 なぜ拘置所で悶々とした日々を過ごしていたかというと、判決の期日が書面で郵送され、まだ上申書の作成途中(中途段階で提出しながら)だったので戸惑いも大きく、さらに木梨松嗣弁護士に手紙や電報で何度も連絡を送ったのに、返事も何も連絡が一切なかったのです。

 その不満を拘置所の職員にぶつけたこともありました。怒鳴り返されることもありましたが、処遇のやっかいものと見做され、それが保護房への収容や革手錠という刑務官の判断につながった可能性は高いと思います。

 なお、拘置所の職員と言っても、金沢刑務所と同じ刑務官です。そのことは金沢刑務所で服役してからよくわかりました。拘置所の建物は外からは小さい団地に見えるもので、入り口の頭上に拘置舎という看板がついていました。金沢刑務所と同じ敷地内です。

 当時、拘置舎には区長と思われる上司の刑務官がいて、言葉できくといつも「ふちょう」と聞こえていたのですが、看護婦の婦長ではないので、他にそれらしい漢字はありそうに思えず、区長ではないかと自分で考えるようになったのです。

 名古屋弁で身長は高くなかったものの、どっしりとした体型で、制服のデザインも似たように見えることがあったのですが、銀河鉄道999の車掌にも見えるような体型でした。メガネをかけていたと思います。

島崎俊郎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E4%BF%8A%E9%83%8E

 ようやく探し出すことが出来ました。上記のタレントです。福井刑務所で2級生になってからは自由なチャンネル選択が出来るようになり、日曜日の20時からは「天才・たけしの元気が出るテレビ」を見ることが多かったのですが、上記のタレントの姿を見たとき、雰囲気が区長に似ていると思いました。

 いろいろなキーワードで検索を繰り返したのですが、なかなか情報を見つけ出すことが出来ず、名前の方も思い出せそうで思い出せないもどかしさがあって、なにか不都合があってネットから過去の情報が消されたのかとも勘ぐってしまいました。当時はテレビの露出の多いタレントだったと思います。

 区長の下には部下のような上司がいて、その下に拘置舎2階の担当と呼ばれる刑務官がいました。若い刑務官で嶋という名前だったように思います。控訴申立書のような書面に直筆の名前が書いてありました。その一つ上の上司も、小柄でメガネをかけていて、目が細く鋭かったという印象です。

 その刑務官と思われる人物の名前も何かの書面で見たことがあり、崩れた筆跡でしたが、ずっと「出雪」という名前だと思い込んでいました。変わった名前だと思っていたのですが、2,3年ほど前に、ふと「出雲」と読むのが正解ではなかったのかと、考えるようになりました。

カシワの葉を用いた柏餅は徳川九代将軍家重から十代将軍家治の頃、江戸で生まれた。カシワの葉は新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、「子孫繁栄(家系が途切れない)」という縁起をかついだものとされる。

江戸で生まれた端午の節句に柏餅を供えるという文化は、参勤交代で日本全国に行き渡ったと考えられているが、1930年代ごろまではカシワの葉を用いた柏餅は関東が中心であった。

柏餅 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E9%A4%85

 柏餅について調べてみました。端午の節句といえば、粽も風習になっているはずですが、数日前、テレビをつけたまま寝ていて、深夜に目が覚めたとき、ちょうどテレビで汨羅の淵に投身自殺したという屈原のことが紹介されていました。

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 上記はスマホでテレビの画面を撮影した写真です。2,3日前、写真ファイルの整理をしているとき、サムネイルを見て、素戔嗚尊の絵巻物に見えたのですが、古い写真が紛れたのかと気になりながら調べることもなく、そのままにしていました。思い出したのは柏餅の話を見てからです。

 平成5年3月の1日から31日の退院まで、金沢大学附属病院の精神科閉鎖病棟で山口成良金沢大学教授の精神鑑定を受けたのですが、そこにはある程度まとまった数の本がおいてありました。

 そこにプレジデントというビジネス経営者向けの月刊誌のような雑誌がおいてあって、そこに楚の国の政治家、詩人であった屈原が汨羅江で投身自殺をしたということが書いてあったのです。汨羅は青年日本の歌という昭和初期の歌の歌詞に出てくることは知っていたのですが、発見となりました。

 投身自殺をする直前の屈原の描写として、憔悴というような表現があり、それは平成4年の8月の中頃に一度だけ拘置所に面会に来た被告訴人松平日出男の状態を思い起こさせるもので、その時の被告訴人松平日出男は、血の気のない顔面が干からびた梅干しのようになっていました。

 その被告訴人松平日出男ですが、平成9年1月18日に福井刑務所を満期出所したあと、市場急配センターに掛けた電話で話をしたとき、鼻の癌になって手術を受けた、という話をしていました。以前、鼻の癌の術後の生存率をネットで見たのですが、5年後10年後という生存率がずいぶん低そうでした。

 被告訴人松平日出男の年齢というのは、平成4年4月の供述調書に48歳と書いてあったように思います。計算だと現在は73歳頃ということになりそうです。まだまだ健康そうな年代ではありますが、鼻の癌の話が本当なら、嘘だったというのも考えにくい話ですが、亡くなっている可能性が高そうです。

 被告訴人松平日出男とは、平成10年11月20日頃に、一度だけ直接会ったこともありました。健康に問題があるようには全く見ませんでしたが、ずいぶんと不安そうで、別れ際には、私の手を握りしめ「頼むぞ」という言葉を念仏のように何度も繰り返していました。

 その日は日曜日だったのだと思います。「cal 1998」というコマンドを実行して調べると、11月22日が日曜日となっていました。その場にいたのは労務の担当者として話を聞かせてもらう、と言った堂野さんだけでした。市場も仕事も休日だったのだと思います。

 被告訴人松平日出男が精神的に不安定なのは演技でもなく間違いなさそうでした。自分が私に対して何をやったのかそれだけの自覚はあったのだと思いますが、これ以上、不用意に刺激をするのはかなり危険だと私は考えました。

 そんな被告訴人松平日出男も強気の一面を見せることがあり、話し合いのテーブルについてすぐに、安藤健次郎さんが来るかも知れないという話をしたのですが、軽く笑ったような顔になり、ずいぶんと余裕を見せていました。

 会談をした場所は市場急配センターの2階の事務所です。13時か14時の時間指定になっていましたが、その前日ぐらいに安藤健次郎さんに電話をしたとき、よければその時間に来て、同席をして欲しいと伝えていました。

 11月も下旬となれば日が暮れて暗くなる時間も早かったと思います。アオリイカのシーズンの10月でも18時になるとけっこう薄暗くなっていると感じたことがありました。

 とにかく夕方に近い時間でありながらまだまだ外は明るい時間帯に、被告訴人KYNの会社からの帰り道、間明の陸橋の側にあるマルエーというスーパーの前にある電話ボックスから安藤健次郎さんに電話をしたことを憶えています。

 安藤健次郎さんは、同席に来るつもりはない、と言っていましたが、力強い声で、「あんな会社つぶれようがかまわん。」と初めて心の底からの本音と思われる発言をしていたのが、すごく印象的でした。マルエーの前の電話ボックスを使ったのも、その時だけだったと思います。

 そもそもが松任市の鉄工所の会社に電話を掛けてくるのは、仕事が終わった18時半か19時以降にするように言われていました。はっきりした指定の時間は思い出せなくなっています。

 その会談の前に、何度か市場急配センターに電話をしていたのですが、野々市町のゴリラとかいうゴルフショップの建設現場から電話をすることがほとんどだったという記憶もあります。大きな現場でもなかったので、現場に通っていたのも比較的短い間だったと思います。

 私は木梨松嗣弁護士や、その意向を汲んだ内容の精神鑑定書を作成した山口成良金沢大学教授、そして判決を出した小島裕史裁判長が、何をしたかより何をしなかったかが重要だと考えています。結果的に私が唯一の当事者として訴えた事件の真相や事実は、全て無理され切り捨てられました。

 それは同時に、法律家が被害者の立場をどれほどないがしろにし、軽く扱ったかという事実の歴史的な証明になったとも考えています。精神鑑定書のベースにしたのも、金沢西警察署の捜査資料をまったく無批判に検証することもなく、上辺をなぞったものでした。

 裁判官というのは憲法で自由な判断や裁量が保証されていたかと思いますが、その唯一の制限とされるのが、経験則であるはずです。同じ法律家など仲間内の経験則には敏感にも見えますが、一見さんお断りの老舗のお店のように、口利きのない一般人は、いかなる権利侵害も無視する伝統が感じられます。

 時刻は15時48分になっています。さきほどモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のタイムラインで、気になるリツイートを目にしました。医師や医療と法律家を混同させたような理論の披瀝でした。深澤諭史弁護士にありがちな傾向でもあります。

 そういえばと思い出したのは、昨年の告訴状にも書いたと思いますが、山口成良金沢大学教授が精神鑑定書のことで証人尋問を受ける公判のとき、木梨松嗣弁護士が白衣を来た医者のような人物を連れて法廷に入ってきました。すでに小島裕史裁判長ら3人の裁判官は着席をしていました。

 公判が始まる予定の時間ぎりぎりに入ってきたとも考えられますが、他の公判ではちょうど予定の時間に、裁判官席の後にある忍者屋敷のからくり扉のような出入り口から、法被をひるがえしながら3人同時に、さっそうと登場して、着席するという場面も何度か目にした記憶があります。

 そういえば、昨日の18時から15分ほどのローカル番組が石川テレビでやっていて、のと鉄道の若い鉄道員にスポットを当てていたのですが、石川県の出身者ではなく、それと30歳のときに癌の宣告を受けて手術をしたという話が印象的でした。

 まったく健康そうにしか見えなかったですが、若いときの癌ほど進行が早く亡くなるのも早いと聞いたことがあるからです。それも10年ほど前の情報であったとは思いますが、30歳でも癌の宣告を受けるのかと考えながら、医師の告知というのも重いものがあるとあらためて考えました。

 山口成良金沢大学教授の私に対する精神鑑定書は、医学的な知見から診断書のような体裁にもなっていましたが、結論部分は、「爆発型のなんとか気質を有する被告人の心因反応で、精神病とは明らかに異なる」などと一件矛盾するようなことが書いてありました。

 被告人側の心神耗弱ないし心神喪失の主張を否定するという趣旨になっていたかと思います。木梨松嗣弁護士が一方的に持ち出した法律上のよくある理屈が大前提となっています。また、準強姦時に被害者が抗拒不能であった認識が被告人には乏しかったと思われる、などとも書いてあったと思います。

 本当は山口成良金沢大学教授の精神鑑定書をみながら、具体的な指摘を書いた方がよいと、ずっと前から考えていたのですが、もう2年ぐらいは、その精神鑑定書にまったく目を通していないと思います。現在も記憶に残る範囲のことを書いただけです。

 時刻は20時42分になっています。夕方に宇出津新港に買い物に行ってから、そのまま銭湯に行き、銭湯を出てからはAコープ能都店で少しだけ買い物をして戻りました。

 銭湯で湯船に浸かりながら、このエントリーで書き足りなかったことを頭の中で拾い出していました。家に戻ってからテレビはまだつけていないのですが、深澤諭史弁護士のタイムラインで驚くべき発見のラッシュがあり、それが引き金のようになって、華岡青洲の妻について調べました。

 このエントリーで書きたらず、説明不足もあったと思いますが、そのことは後回しにして、次のエントリーに取り掛かりたいと思います。対極でありながら共通項もある深澤諭史弁護士と、私が歴史上、仏にもっとも近づいた人物と考える華岡青洲の妻の組み合わせというチャレンジをします。

<< 2017/05/07(日) 20:51:48 <<